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第8回 世界考古学会議(WAC-8 KYOTO)8.28-9.2 [研究集会]

開発・政治・ポスト植民地主義・倫理・比較・地域・教育・公共・理論・科学・宗教・相互交流・災害・芸術・戦争という15テーマに159のセッションが設定されて、そこに1333本の口頭発表が配置される。これらが29会場で4日間同時進行で発表される。そのほか130枚のポスター発表、7つのエクスカーション、記念集会、記念講演、総会、サテライト会場での展示など盛り沢山である。

設定された15種類のテーマの一つ「テーマ3:ポスト植民地経験、考古学の実践、そして先住民考古学」では、15のセッションが設定されて総計89本の発表が予定されている。
15セッションの内、セッション題に”Repatriation”(返還)の用語が採用されているのは8セッション、キーワードにあるのが1セッションである。
89本の発表の内、発表題ないしはキーワードに”Repatriation”(返還)の用語があるのは、以下の44本である。自らの発表分を除外すれば、43本。
4日間フルに聞いても、1日10本以上の発表を聞くことになる。
「返還」という単一テーマに絞ってもである。

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第11回 宣言記念日 [雑]

10年で一区切りをつけたつもりだったが、まだズルズル続いている。
そもそも本ブログは、10年前に大阪で開催されたWACの中間会議で発表する「遺跡問題」について、広く意見を求めるというのがスタートの大きな動機だった。
そのWACの様子を毎晩、梅田のインターネット・カフェから送信していたのが、文字通り10年ひと昔、今ではスマホで、はい、お仕舞いという時代である。感慨深い。

この時期は、いつも日本考古学協会の総会記録を掲載した『会報』が送られてくるので、どうしてもそれに関連した記事になってしまう。
今回の第188号では、2年振りに「常置委員会・特別委員会・小委員会委員名簿」が掲載されている(21・22頁)。

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朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告』 [考古誌批評]

朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告第一冊図版・本文』慶州金鈴塚飾履塚発掘調査報告(梅原 末治編1973『慶州金鈴塚飾履塚 -大正13年度古蹟調査報告-』国書刊行会として復刊)

1924年に調査した資料について、7年後に図版編、翌年に本文編が出版され、42年後に合冊となり復刊された。
85年前の日本人考古学者は、このような文章を書いていた。

「…いよいよ五月十日から作業に着手した。處が事実は豫想に反して、半壊と考へてゐた両古墳ともに、主要部をなす積石は地下に埋もれて殆んど全容を遺存し、人家の間にあつて其の採掘に多大の苦心を要するものがあり、中心に到達する二週間のうちに屡々歎聲を發せしめたが、而も普門里古墳の發掘に経験のある澤氏の土工上の剴切な處置が効を奏して、西古墳の深さ十尺を超へた地中から金冠塚で見たと同様な腰佩金具が見出され、ついで金冠、珠玉等を検出、更に無数の副葬品を獲ることゝなつて、其の労苦が十分に酬ひられ、引続いで東方の一基からも多数の遺物を発見して、両者の調査に四十餘日を費したとは云ひ乍ら、大正十年に於ける金冠塚と姉妹的な発見を遂げて、是等を学術上の見地から調査記録した事は、局に當つた者の永久に忘るべからざる快事として、兼てまた総督の期待に添ふものあるに哀心の愉悦を感じたところである。」(3-4.)

「朝鮮総督府嘱託」との肩書による梅原末治氏の文章である。
「哀心の愉悦」といった表現も今や死語であろう。

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御堂島2016「石器実験痕跡研究の構想」 [論文時評]

御堂島 正 2016 「石器実験痕跡研究の構想」 『歴史と文化』 小此木輝之先生古稀記念論文集、青史出版:103-120.

駿河台のM大から、西巣鴨のT大へ。
質の違いが、歴然としている。

「実験痕跡研究の枠組み」(五十嵐2001『考古学研究』47-4:76-89.)を提示してから15年、日本では数少ない「トラセオロジスト」から世界的な研究動向を踏まえた上で日本語としての用語・枠組み共に良く吟味・整備された「石器実験痕跡研究の構想」が提示された。
望むべくは、こうした内容の論文が私よりも若い研究者(30代せめて40代)から提出されることなのだが、それは高望みともいうべきか。
学問の進展・歩みというものを、目の当たりにする思いである。

「様々な実験により把握された人間行動・自然現象と痕跡との関係は、ブラインドテストによる検証が行われる必要がある。使用痕跡分析ではよく行われている(Keeley and Newcomer1977; Odell and Odell-Vereecken1980; Newcomer et al.1986; 御堂島1987など)が、石器石材の原産地推定(朽津・柴田1992)、や動物(魚介類)遺存体分析(Gobalet2001; Milner2001)、植物珪酸体分析(Pearsall et al.2003)、炭素年代測定(Olsen et al.2008)などでも行われている。ブラインドテストは、痕跡からどの程度正しく人間行動・自然現象が推定できるかという分析能力を評価するものであると同時に問題点を明らかにし、方法的改善を図るための強力な手段となる(Evans2014)。ただし、ブラインドテストは設定条件によって成績が大きく左右されるものであり、有意味な条件設定を行う必要があるが、少なくとも実験と同条件においては(高い確率で)正しく推定できなければ、把握された関係は単なる思い込みに過ぎないということになってしまう。」(107.)

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藤山2013「“利器としての剥片”から考えるために」 [論文時評]

藤山 龍造 2013 「“利器としての剥片”から考えるために -その認識に向けて-」『駿台史学』第147号:203-225.

前回記事(赤星2015)の背景を探るために遡って辿り着いた論考である。

「以上のように、ここでは無加工の剥片が主力になっている。それらは確然たる目的によって区別されることなく、むしろ極めて多様な作業に向けられている。また、はじめから規格性を希求しておらず、その時々の作業に見合った剥片が”道具”になるという点で、我々が思い描く石器群とは大きく論理を異にしているわけである。こうした石器群を”型の論理”で処理しようとすれば、その本質は十分に認識されないことになるだろう。
このことは歴史上の石器群を取り扱ううえで極めて示唆に富んでいる。先史時代の石器群では、あらかじめ幾つかの器種が作り分けられ、それぞれの目的ごとに使い分けられる。我々はこのようなモデルを描きがちだが、上記の事例は暗黙の前提を大きく揺るがすことになる。器種の区別が不鮮明であるばかりか、ときには加工自体が欠如していることは、今後の方向性を模索するうえで大きな問いを落としている。」(210.)

「落としている」とされる「大きな問い」とは、何だろうか?
 誰が、いつ、どのような問いを「落としている」のだろうか?
「思い描く」とか「描きがち」とされる「我々」に、私たちも含まれているのだろうか?
以下の一文を噛み締めるべきである。

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赤星2015「旧石器時代初頭における石斧製作と移動生活の復元的研究」 [論文時評]

赤星 純平 2015 「旧石器時代初頭における石斧製作と移動生活の復元的研究」『駿台史学』第154号:147-182.

現在調査中のエリアからも「旧石器時代初頭における石斧」とされる資料が出土しているので、遅ればせながら読んでみたのだが……… 最初から最後まで分からないことだらけである。ここまで訳が分からない論文も珍しい。

国武1999「石材消費と石器製作、廃棄による遺跡の類別」という論文を読んで、その論文時評のようなもの(五十嵐2002「石器資料関係論」)を書き、エンゲルスの『反デューリング論』冒頭の一節を引用して本ブログで紹介したのが、もうかれこれ10年以上前のことである。
その時から、日本の旧石器研究は確実に劣化していることを確認した。

「では、正しく打製石斧が「石斧原形」で磨製石斧が「石斧完成品」であったかどうかを、石斧の平面形態、刃部角、打製石斧と磨製石斧の組成、遺存状態から検討していこう。」(161.)

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和田2016「続・多摩の敷石住居」 [論文時評]

和田 哲 2016 「続・多摩の敷石住居」『多摩考古』第46号、多摩考古学研究会:18-34.

「続・緑川東問題」である。 

「石棒の性格や祭祀のあり方に関する議論は多様で、長田友也氏は四本の石棒がSV1で使用された証拠はないとする。厳密にはその通りであろうが、通常の敷石住居とは考え難い特殊な遺構に埋置された石棒は、第一義的に本遺構と密接な関係を有すると捉えるべきと筆者は判断している。」(22.)

本論の発行日が2016年5月27日、五十嵐2016c「緑川東問題」が5月29日なので、当然のことながら両者共にお互いに言及することは叶わなかった。

筆者は、緑川東の本報告作成に関わられた研究者たちの中でも、微妙に立ち位置が異なるように思われる。
それは、SV1について「極めて祭祀性の強い敷石遺構」、「通常の敷石住居とは考え難い特殊な遺構」とその特殊性を繰り返し強調されているからである。
さらに和田氏はかねてより、SV1の主軸が他の敷石住居とは異なり、向郷・緑川東からは冬至の日没が富士山頂に沈むことも指摘されている(和田2004など)。

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「考古学研究史の新機軸」 [論文時評]

「考古学研究史の新機軸 -史資料は何を物語るか-」『考古学ジャーナル』第686号、2016年7月号

総論 歴史研究としての「考古学史」研究(星野 達雄):3-4.
政治史としての「考古学研究史」(星野 達雄):5-8.
社会経済史研究としての考古学史研究(森本 和男):9-12.
日本考古学史における近世と近代(平田 健):13-17.
「現地人」の視座(武井 則道):18-21.
世界考古学会議からみる「考古学史」(溝口 孝司):22-26.

通読して、第1論文から第5論文と第6論文との間に広がる隔たりといったものに思いを巡らさざるを得なかった。
それは、私がある特定の(すなわち偏った)視点でもって通読したからに他ならない。
すなわち日本の考古学の専門誌における特集として「考古学研究史」あるいは「考古学史」を採用した時に、「日本考古学」における文化財返還問題はどのように取り扱われるのか、言い換えれば「日本考古学研究史」あるいは「日本考古学史」において戦時期の半島・大陸における日本人考古学者の活動(すなわち侵略考古学)はどのように取り扱われているのか、という視点である。
こうした視点こそが、「新機軸」という言葉に相応しいのではないか。

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崔2016「日本帝国の外地朝鮮統治と古蹟発掘、そして文化財の行方」 [論文時評]

崔 錫榮(金 廣植 訳) 2016 「日本帝国の外地朝鮮統治と古蹟発掘、そして文化財の行方」『博物館という装置 -帝国・植民地・アイデンティティ-』石井 正巳編、勉誠出版:336-366.

崔 錫榮氏には、4月23日に早稲田大学で行われた研究集会「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究」において、お目にかかっていたのであった。

「本稿では、日本帝国が外地朝鮮で行った古蹟発掘調査とそれに関連する法の制定・運用、植民地博物館の創立とその営みなどを検討し、日本帝国と外地の間で行われた文化制度の「差別的」運用こそが終局的に今日の文化財返還の歴史的背景に繋がっているということを明らかにしたいと思う。」(337.)

かつての植民地支配あるいはそれを支える植民地主義を肯定する人ないしは否定するにしても「それでも」とか「なお」といった留保を付す人は、すべからく「差別的運用」あるいは差別そのものを何らかの意味で肯定していると考えなければならない。

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五十嵐2016c「緑川東問題」 [拙文自評]

五十嵐 2016c 「緑川東問題 -考古学的解釈の妥当性について-」『東京考古』第34号、東京考古談話会:1-17.

「2012年6月30日、多摩川中流域左岸からおよそ500mの青柳段丘面に位置する緑川東遺跡第27地点の「敷石遺構SV1」と名付けられた遺構の中央部から、4本の大形石棒が並んだ状態で確認された。
この発見は「これまでの石棒研究の「常識」を覆す」(清水2013d:101.)と評されたが、私もこうした事例は単に石棒研究に限られない「前代未聞」「百年に一度の大発見」と考える。だからこそ緑川東遺跡の4本の大形石棒をどのように評価し、その意味についてどのように解釈するのかという点について、様々な立場から多様な議論がなされることを望んでいる。本論は、そうした問題提起を目的とする一つの試論である。」(1.)

これからは、「6月30日」を「石棒の日」として提唱したいくらいである。
『東京考古』に投稿したのは、17年前の「旧石器資料報告の現状」(五十嵐1999『東京考古』第17号)以来である。
事ここに至るには、それなりの経緯があった。

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五十嵐2016b「<場>と<もの>の考古時間」 [拙文自評]

五十嵐 2016b 「<場>と<もの>の考古時間 -第2考古学的集落論-」『考古学の地平 Ⅰ-縄文社会を集落から読み解く-』小林 謙一・黒尾 和久・中山 真治・山本 典幸編、六一書房:117-128.

① 住居跡時間(遺構製作時間)を推定する信頼度は、土器型式(遺物製作時間)の出土状況(部材か覆土かといった遺物廃棄時間)で異なる。
② 同じ出土状況を示す接合資料についても、含まれた<場>の条件によって埋没に至る経緯や経過時間に関する解釈が変容する。
③ 同一遺構において異なる遺物型式が共存した場合の解釈は、遺物時間を優先して遺構時間を引き延ばすか、遺構時間を優先して古い遺物時間を引き延ばすかになる。
④ 累重関係は遺物廃棄時間が相対的に確定できるのに対して、面中関係は部材の相互関係のみでは遺構に組み込まれた相互関係を確定できない。

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五十嵐2016a「動向の動向」 [拙文自評]

五十嵐 2016a 「動向の動向 -「日本考古学」の枠組み-」『東邦考古』第40号、山岸良二先生退職記念号、東邦考古学研究会:208-216.

慣例に従い奥付に記された発行年月日の早い順に紹介する。実際は、本論が最新作なのだが。
本論の基本的な部分については、10年前の2006年6月に集中的に本ブログで公開した記事に基づいている。
そうした意味では、旧作なのだが。10年越しの課題をようやく果たし終えた、ということになる。

1.はじめに
2.動向の変遷
3.項目の欠落
4.時期区分
5.地域項目の細分化
6.内国への自閉化
7.北と南
8.おわりに

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大場2016「直接打撃の痕跡」 [論文時評]

大場 正善 2016 「直接打撃の痕跡 -先史時代珪質頁岩製石器資料に対する技術学的理解のために-」『研究紀要』第8号、山形県埋蔵文化財センター:1-20.

焦点は、註2と註3のわずか数行である。

「註2) (中略) 確実性の高い事実を積み上げたうえで解釈に至らせるのであり、解釈や理論を積み上げるという「工夫」でもって解釈を至らせるのではない。筆者は、わたしたちの資料認識の方法のどこに「思考停止」があるのかを、具体的に示していない。もしくは、筆者の言う「思考停止」のない「動作連鎖」研究の方法を具体的に示してほしい。かりに、「これらの研究動向」を踏まえた資料認識を行ったとしても、それは解釈認識になってしまい、前科学的になってしまう。資料と解釈とをつなぐ十分な論理が必要なのであり、それがなければ、それこそ思考停止になってしまうのではないだろうか。
 註3) 研究者の信ぴょう性と客観性を検証するための「ブラインド・テスト」が必要である、と言う(五十嵐2001「実験痕跡研究の枠組み」『考古学研究』47-4:77-89.(引用者補))。しかし、「ブラインド・テスト」を行ったとしても、その「ブラインド・テスト」そのものに不正が行われていないかを、第三者によって検証する必要が出てくるのではないかと疑念が生じる。かりに、第三者によって「検証された」としても、さらにその検証に対しても疑念が生じてくるのであり、そしてその検証にも…、というようにその疑念と検証は果てしなく続いていくことになるのではないだろうか。」(19. *註2)における「筆者」とは長井謙治2015「石器づくりの可能性」『岩宿フォーラム2015 石器製作技術』を指す。)

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日本考古学協会創立時委員メンバー [学史]

「1948年4月2日東京国立博物館大講堂で、日本考古学協会設立総会が開催され、ここに正式に協会の設立がなされた。
藤田亮策先生が、委員長になり、次の10人の委員が選ばれた。
梅原末治・後藤守一・駒井和愛・八幡一郎・斎藤忠・江上波夫・水野清一・石田茂作・山内清男・杉原荘介(『日本考古学年報』1の掲載順による)」
(斎藤 忠1998「初代委員長藤田亮策先生を憶う」『日本考古学』第6号、日本考古学協会:208.)

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京都大学が所蔵する慶陵武人像が日本に持ち込まれた経緯について [学史]

「京都大学に所蔵される壁画武人像は、東陵(興宗陵)墓道西壁に描かれていた儀仗兵のひとりである。東陵では、墓道のみならず、墓室各壁面にも現地の春夏秋冬の風景を描いたいわゆる「四季山水図」をはじめとするさまざまな壁画が描かれていたが、結果としては、この武人像のみが緊急保存措置として日本に将来されることになった。以後、この壁画は、1952〜3年の『慶陵』の出版で紹介されたことをのぞき、おおむねは隔離保存された。(中略)
武人像壁画は、遼文化の素晴らしさを証明する実物であり、この時代の東アジアの歴史について、北宋を中心にとらえがちだったこれまでの通念に再考を迫るものである。また、戦前・戦後の不幸な時代をのりこえて、現在から将来にわたる日中文化交流のかけ橋となるものであり、さらには人類文化の屈指の遺産のひとつでもある。」(京都大学ニュースリリース 2006年5月30日 京都大学文学部百周年記念展示「百年が集めた千年」 )

慶陵の壁画については、1952年の本報告刊行以前に『美術研究』という東京国立博物館が発行する雑誌にその概要が報告された(1949「慶陵の壁畫 (上)・(中)・(下)」『美術研究』第153号・第155号・第157号)。

「もともと、壙道部は露天にして、床面から両壁頂にいたる空間は、割石を混じる砂土をもつて充填されているため、壁畫はいずれも土砂の密着することによつて、いちじるしく汚損されており、とくに西方壁面は、東方壁面に比してそれが一そうはなはだしく、人物の一人一人を識別することすら困難を感じさせる。ところが、ただ羨門にもつとも近く立つ第一の人物像のみは、さきに第四章陵墓の構造の條において一言したように、入口を封鎖するため、羨門の前方に高くつみ上げられた塼によつて、かろうじて土砂の密着による汚損からは免れ、かなり鮮明にのこつていた。(略)
なお、壙道部の壁面は露天である上に、さきにものべたように、割石を混じた砂土をもつて埋めつくされていたため、漆喰の中にまで土砂が深く喰い入り、両壁面とも羨門に近い第一人物をのぞく以外は、ほとんど識別しがたいまでに汚損されていることは、まことに惜しむべきしだいであり、…(以下略)」(田村 實造1949「慶陵の壁畫(中)」『美術研究』第155号:165-166.)

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「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究」 [研究集会]

「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究 -近代東アジアの考古学・歴史学・文化財政策-」

日時:2016年4月22日(金)・23日(土)
場所:日仏会館、早稲田大学26号館
企画代表:李 成市、ナンタ アルノ

「このシンポジウムでは、植民地朝鮮における古代史研究(考古学、歴史学、古蹟保護政策)のみならず、植民地期カンボジアにおけるフランスの考古学事業という前史のもつ意義、そして大陸中国における考古学活動をも参照しつつ、「植民地的状況」下で実施された学知を検討する。」(案内チラシより)

李 成市 「朝鮮古代史研究と植民地主義の克服」
崔 錫榮 「朝鮮総督府による古蹟調査と博物館の役割」
早乙女 雅博 「植民地朝鮮における考古学調査・古蹟保存と、それを通してみた朝鮮古代史像」
吉井 秀夫 「京都帝国大学考古学研究室からみた朝鮮総督府の古蹟調査事業」
箱石 大 「朝鮮総督府による朝鮮史料の収集と編纂」
裴 炯逸 「帝国の名勝地を視覚する -朝鮮植民地古跡の写真分類と観光メデア-」
藤原 貞朗 「植民地学としての東アジア考古学 -その理念と実践の比較検討-」

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酒寄1999「「唐碑亭」すなわち「鴻臚井の碑」をめぐって」 [論文時評]

酒寄 雅志 1999 「「唐碑亭」すなわち「鴻臚井の碑」をめぐって」『朝鮮文化研究』第6号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部朝鮮文化研究室紀要:33-60. 2001『渤海と古代の日本』校倉書房:386-434.所収

「鴻臚井(こうろせい)の碑」とは、唐の外交官職である「鴻臚卿」が渤海国王を冊封した帰途、旅順に立ち寄り井戸を掘り記念として傍らに設けた巨石の碑であり、「唐碑亭」とはその石碑を覆う覆屋を言う。
そもそも中国・遼寧省にあった石碑が、なぜ日本の千代田区に存在しているのか。

「文献史料の乏しい渤海史研究にあって、「鴻臚井の碑」は、戦後に発見された貞惠公主墓誌や貞孝公主墓誌などとともに貴重な金石文である。しかしながらこの碑石は、現在、日本の皇居内深くに置かれており、それを目の当たりにすることはかなわない。そのため碑石自体がどのようなものか、碑文は一体石のどの部分に書かれているのかなどわからないことばかりであった。」(33.)
「この碑石はつとに「鴻臚井の碑」と呼ばれて斯界では知られているが、今日、皇居内の御府の一つである「建安府」の前庭にあるという。」(34.)

「御府(ぎょふ)」も「建安府」も、知らないことばかりである。
ウィキによれば、「戦利品は関係各国に返還された」とのことであるが、いつ、どれほどのものが、どこに返還されたのか、甚だ信憑性に欠ける記述である。根拠となる情報源(例えば新聞記事など)も、示されていない。
少なくとも「鴻臚井の碑」は未だに皇居内にあり、現地からの返還要求にも応じていない。

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植木2015『植民学の記憶』 [全方位書評]

植木 哲也 2015 『植民学の記憶 -アイヌ差別と学問の責任-』緑風出版

前著『学問の暴力』を、6年前に紹介した。

「1977年4月、北海道大学経済学部ではいつもの年度と同じように新学期が始まっていた。軍艦講堂の一番教室で開講された「北海道経済史」は、経済学部四年生を対象に毎週金曜日と土曜日に開かれる講義だった。100名ほどの受講生に対して、授業を担当したのは、当時経済学部長を務めていた林善茂である。
講義に出席した学生たちの話によると、林教授は最初の講義で、「北海道経済史は日本人を主体にした開拓史であり、アイヌの歴史は切り捨てる」と語った。それだけでなく「学生たちを笑わせるための冗談や雑談」として、アイヌ民族の身体的特徴を強調し、アイヌ女性を蔑視した表現をするなど、差別的な言葉を繰り返した。
こうした発言を「暴言」と感じた学生が一人のアイヌに相談した。相談を受けたのは結城庄司。当時、アイヌ解放同盟の代表として、積極的に民族差別問題に取り組んでいた人物である。とくに研究者たちによるアイヌ差別に反対する活動を展開し、札幌医科大学で1972年に開催された日本人類学会と日本民族学会の連合大会で、出席者に公開質問状を提出し、アイヌ民族に対する研究者の意識を問いただしていた。」(12.)

こうした経緯を経て、先月の新聞報道に繋がっていく。
それでは遺骨と共に発掘された考古資料の扱いについて日本考古学協会の対応は、どうなっているのだろうか。

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田村1994『慶陵調査紀行』 [全方位書評]

田村 實造1994『慶陵調査紀行』平凡社

「慶陵と著者(田村)との縁由をいえば六十有余年の昔にさかのぼる。1931(昭和六)年七月、日本東亜考古学会によって組織された内蒙古調査団が、チャハル省およびシリンゴール盟における考古、歴史、人類、地質、言語の各部門にわたる総合的学術調査を目的として、山西省張家口から長城をこえて内蒙古入りを敢行したとき、たまたま当時、この学会から派遣されて北平(北京)に留学中であった著者は現地から参加することになった。
慶陵は、当初この調査団の調査対象ではなかったが、田村の熱望がいれられて、一行は八月中旬、興安嶺を西から東にこえて、かつて遼代に慶陵の奉陵邑であった慶州城址にあたるバリン左翼旗管内の白塔子部落を訪れた。翌日団員の江上波夫氏(東京大学名誉教授)と田村とは、写真技師田中周治氏を伴い一人のラマ僧を案内者として、ここから西北約14㌔をへだてる興安嶺山系のワール・イン・マンハ(慶雲山)の地下にある慶陵三陵墓(東陵・中陵・西陵)の調査に赴いた。」(21.)

ここで述べられている「内蒙古調査団」とは、前々回の記事で紹介した「東亜考古学会蒙古調査班」のことを指す。

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ナンタ2016「植民地考古学・歴史学・博物館」 [論文時評]

アルノ・ナンタ(Arnaud Nanta)2016「植民地考古学・歴史学・博物館 -朝鮮半島と古代史研究-」『帝国を調べる -植民地フィールドワークの科学史-』坂野 徹編、勁草書房:47-84.

「日本人研究者が朝鮮半島で実施した学問研究のなかで、本章で注目するのは考古学である。19世紀に誕生した近代考古学は、同時期に形成された国民国家におけるナショナル・アイデンティティの創造過程で重要な役割を果たすとともに、世界各地の植民地(特に地中海と東アジアの各植民地)において、征服地域を把握するために不可欠な学問となった。」(48.)

編者の坂野 徹氏と慎 蒼健氏が中心となって2005年に組織された「植民地と学知研究会」による2010年の論文集『帝国の視覚/死角 -<昭和期>日本の知とメディア-』(青弓社)に次ぐ成果の論考である。2012年からは、「帝国日本のアジア地域における人類学・衛生学に関する歴史研究」(日本大学経済学部中国・アジア研究センター)という研究プロジェクトが直接の母体となっているようだ。
アルノ・ナンタ氏は、フランス国立科学研究センター(CNRS)に所属する研究者である。

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