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無題 [雑]

まるで青臭い若造、とけなされても、
それを褒め言葉として受け取ろう。
なぜなら、変に物知り顔の、訳が分かったような大人などには
なりたくないから。
なぜなら、いつまでも若い頃の理想を掲げ続けたいから。

あるいは紳士面をした偽善者、とののしられても、
それを甘受しよう。
なぜなら、自分はそうして人の心を傷つけたくないから。
なぜなら、いつでも冷静に物事の理非を判別していきたいから。

後の人は、どのような思いで、知ることになるだろうか。
21世紀の初頭、東アジアの島国の一角で、
「第2考古学」なる言説が唱えられたことどもを。

へっぽこな詩みたいなもので終わりでは、お気の毒なので、74年前の本物の詩(ある出版社のウェブ・フロント・ページから重引)を記しておこう。

 「我々は、
 人の志は達せられ、
 愛は受け入れられ、
 仕事は報いられ、
 正しさは認められ、
 義は掲げられることを欲するものであり、
 そうあることは可能だと知るものであり、
 そのために喜んで働こうとするものだ。」
 (中野重治 1932年10月6日)


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鬼の城

その意気やよし! 私は"先史考古学至上主義"を脱しきれたいないのかもしれない。しかし、私にとって今を生きる考古学をする、とは日大闘争の現在的継承であり、現状批判の視点の持続であると思います。
by 鬼の城 (2006-03-22 16:47) 

F

 花であることでしか
 拮抗できない外部というものが
 なければならぬ
 花へおしかぶさる重みを
 花のかたちのまま
 おしかえす
 そのとき花であることは
 もはや ひとつの宣言である
 ひとつの花でしか
 ありえぬ日々をこえて
 花でしかついにありえぬために
 花の周辺は的確にめざめ
 花の輪郭は
 鋼鉄のようでなければならぬ
  (石原吉郎「花であること」)
by F (2006-03-23 07:43) 

角張

五十嵐さん:主張はけっこうですが、実際の石器研究で、剥離面をどうみるのか、その点はいかがですか?哲学というのは、それ自体独立に総論としてあるのでなく、各論の背後にあるのではないかと愚考します。
 小生は、終生「実測屋」で結構ですが、その実測屋にも日々新たな発見があるものですよ。
 小生は、1個の石器をみながら、哲学を考えたい。貴君は、おそらく、総論を思考しながら石器をみるのでしょうね。
 理論を議論する学者が貴君であるなら、小生は一雲水でありたいと思っています。
 貴君を間違っているとは思いませんが、賛同はしかねます。
 
 再度、問いましょう。あなたは、目の前の石器を如何としますか。

 

 
by 角張 (2006-03-24 22:56) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

角張さん、ようこそ。私は、1個の石器ではなく、複数の石器で構成される石器群あるいは接合する石器たちをみながら、考えます。わたしは、そうした目の前の石器たち、特に接合する石器たちをどのように表現するか、それらが考古資料としてどのような意味を有しているのかを考え続けてきました。そのひとつの結論が、2002b「旧石器資料関係論」、2003f「武蔵国分寺跡遺跡北方地区旧石器」、2004e「剥片剥離原理」です。2002bにて、複数の石器群を認識する際の基本的な見方あるいは母岩識別批判を提示しました。そして2003fにて、具体的な出土資料に対する記載レベルにおける自らの考え方を提示しました。さらに2004eにて、石器資料に関するメタ・レベルの原理を提示しました。こうした私が示した提起に対して何らかの応答(否定的であれ、肯定的であれ)がなされた時点で、改めて私の意見を提示していきたいと考えています。如何でしょうか?
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2006-03-25 13:28) 

屋代国主

 石原吉郎の詩、とても美しく安来さんも
喜ぶと思います。
by 屋代国主 (2006-06-18 01:47) 

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