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大湯環状列石 [学史]

「帰京後、朝日新聞社の後援で日本古代文化学会で本環状組石群の再調査の計画を練り、後藤守一博士を調査主任として甲野勇先生、塩野半十郎、吉田格氏なども加わり、筆者も加えて、計五名が大湯ホテルに泊りこみで調査を実施することになった。」(江坂輝弥1968「大湯環状組石遺跡調査の頃」『甲野勇先生の歩み』多摩考古学研究会編:77. 下線引用者、以下同)

「甲野氏と共に熱心に発掘に関係せられた江坂輝弥氏の書簡によって当時の状況を述べる事にする。(中略) 又一月下旬乃至二月中旬遺物と遺跡の写真展を朝日新聞後援にて日本古代文化学会と慶応義塾大学文学部、民族学、考古学研究室主催にて慶応の民族学、考古学標本陳列室にて開催致したいと考えて居ります。(中略)」右は昭和二十一年十二月八日附江坂輝弥氏の書簡であり、その当時から同氏が如何に活動していられたかよくわかるのである。」(大湯郷土研究会1973『特別史跡 大湯環状列石発掘史 全編』:65.)

1946年10月中旬に行われた秋田県大湯環状列石の調査に日本古代文化学会が関係していたこと、すなわち1946年10月時点において日本古代文化学会が存続していたことはほぼ確実といって良いだろう。
しかし重要なのは、こうした事柄が以後の正史から掻き消されてしまったことである。

「しかして、昭和二一年に及び、新たに学術的な対象となつて登場したのである。即ち同年八月下旬、甲野勇氏・江坂輝弥氏は朝日新聞社の後援の下に同地を視察し、一〇月中旬より三週間前記の諸氏のほかに後藤守一氏・吉田格両氏をも含めた諸氏の手によつて同新聞社の後援の下に調査が行われた。」(斉藤 忠1953「大湯町環状列石の発見と今次調査の経過」『大湯町環状列石』埋蔵文化財発掘調査報告第二、文化財保護委員会:6.)
「甲野勇君が秋田県大湯遺跡の調査が朝日新聞社の援助でできるから一緒にやろうというすすめを持つてこられた。遺跡の状態をきくと、かつて神代文化研究会とかいう会が大湯町の有志と協同して調査したこともあり、環状列石と呼んではいるが、北海道にある環状石籬遺跡とは規模においてずつと大きいものであり、ましてヨーロッパの巨石遺跡とはかなり性格を異にするものらしい。たしかに調査に値する遺跡だと考えたので、喜んでそのすすめに従い、調査隊といつては大袈裟だが、甲野君と私、それに補助を江坂輝弥及び吉田格の二君にお願し、都合四名ででかけることとした。」(後藤守一1953「昭和二一年における大湯遺跡の調査」同前:附録17.)

1951・52年度に行われた国営発掘の調査報告書では、1946年の調査が日本古代文化学会によってなされたということについて、一切の言及がない。
戦時中の1942年に同地を調査した、後藤氏曰く「神代文化研究会とかいう会」については、斉藤氏も「この調査が真の学術的な目的に沿うたものではなく、随つて首脳部の間には、或は扁平な球状の石塊を以て「御霊代」とし、或はこれを栄造した民族を以て「世界に冠たる最優秀民族」とし、この地を「世界文化の発祥地」と思考する如き言辞もあつて、…」(斉藤前掲)云々と紹介もされているにも関わらず。
更に不可解なのは、甲野氏の1946年9月17日付けの書簡においても「一行は五名(後藤守一、江坂輝弥、吉田格、塩野半十郎及び小生)」と明記され(大湯郷土研究会1973:62.)、また塩野半十郎氏自身が記されているように「その頃秋田県大湯町で、不明な遺跡があるという話を甲野先生が聞いて来られ、朝日新聞から援助していただき調査に出かけた。後藤守一先生、甲野先生、江坂輝弥さんと私の四人で人夫は大湯町で出してくれた」(塩野半十郎1968「甲野さんと掘る」『甲野勇先生のあゆみ』:73.)はずなのに、1953年の調査報告書では塩野氏の名前が一切出てこないことである。

未だ占領下のもとで行なわれた登呂と並ぶ国営発掘、その公式報告書で国営発掘に先駆けてなされた調査の主体として存在したのに存在しなかったことにされた戦時下に結成された考古学組織、そして一人の研究者。

1942年7月:神代文化研究所、大湯環状列石を調査
1946年10月:「日本古代文化学会 大湯遺跡を調査」(岡本・麻生1958)
1947年7月:静岡県登呂遺跡調査
1948年4月:日本考古学協会設立
1950年12月:第1回文化財専門委員会、愛知県吉胡貝塚と大湯環状列石を調査候補として諮問
1951年7月:文化財保護委員会大湯環状列石1次調査
1953年9月:『大湯町環状列石』文化財保護委員会
1958年4月:岡本・麻生編『日本石器時代綜合文献目録』

「約二十日程大湯旅館に滞在していたが、およそ今迄の発掘で最も愉快なものであった。旅館にリンゴ園があって、熟した真赤なのを好きなほど食うことができた。お湯には朝に晩に入ることができて、土器洗いもお湯であった。」(塩野半十郎1968 同)

後にこのように回想した発掘調査について、文化財保護委員会調査担当官文部技官の文章そして調査を共にした明治大学教授の文章において、自らの存在がなかったことにされたことを知った時の在野考古学者の失望とやるせなさは如何ほどであっただろうか。
しかしそうしたことも、一切が述べられていない。

 


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コメント 5

カラス天狗

塩野さん・・「農民考古学者」「縄文じいさん」そして「土の巨人」などと云われていましたね。
敗戦後の著名な遺跡調査に数々参加しているようです。
大学者の影で黒子を演じたのでしょうか。
例の蛇体文土器の問題が発覚した直後、当時の秋川市二宮で出土遺物なんかを見せてもらっていると、地元で旧知の方の塩野さん評に接することがありました。
今でも忘れられないのは、大賀ハスの種が出土した遺跡の調査にも、塩野さんが参加していて、「その種を、女子学生を介して大賀博士に提供したのは、他ならぬ塩野さんなんだよ。塩野さんは、花の品種改良もやっていた。・・・この意味わかる?」と、その方、いたずらっぽく笑いました。
すごいブラックジョークだな、と想いましたが・・・
たしかにハスの種自体の年代測定・鑑定はやってませんからね・・・・。
まあ、噂の類いだと想いたいのですが、もしも本当ならば、例の遺跡ねつ造事件ともよく似たことになってしまいますね。
塩野さんもとうの昔になくなり、その方も鬼籍に入って3年、昨日が命日でした。お二人、今頃、あの世で、何を語らっているのでしょうか。合掌。

by カラス天狗 (2012-09-07 17:07) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

確かに存在したもの、皆が認めていたことが、後に何事もなかったかのごとくみなされてしまうことに言い知れないやりきれなさを感じます。

後藤1953「昭和二十一年における大湯遺跡の調査」では「抹消」 →
後藤1958『日本石器時代文献目録』では実質上「認定」
この5年の間の変容は、何が原因でしょうか。単に発表媒体の性格の違いとも思えないのですが。
近藤1964「戦後日本考古学の反省と課題」で「戦後考古学者の無反省」(315.)としてあえて指摘された事項と無関係ではないと思うのですが。

江坂1968「大湯環状組石遺跡調査の頃」では「認定」 →
江坂1974「縄文時代学史展望」『考古学ジャーナル』100:25.では「抹消」
この6年間の間の後藤氏とは真逆の変容は、何が原因でしょうか。
この間の「1969.10.25」が作用していると考えるのは、穿ち過ぎでしょうか。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-09-07 19:00) 

はや

カラス天狗さんが採録した噂はとても興味深いです。
でも、塩野さんが参加した検見川の調査は丸木舟の方で、蓮目的の調査には参加していないですよ。
by はや (2012-09-08 08:04) 

カラス天狗

はやさま。そうなんですか。ちょっと安心しました。
でも、塩野さん、神出鬼没でしたからね。公式記録になくても・・・じつはそこに居たということはあるかもしれませんねえ(笑)

それはそうと、「10.25」を境に何が変わったのか、隠されたのか、やはりもう一度考えてみる必要がありそうですね。「8.15」そして「11.5」という節目についても、同様に意識したいと想います。
by カラス天狗 (2012-09-08 09:56) 

鬼の城

カラス天狗様
この様な節目を忌諱してきた"体質"が問題だと思います。本当に節目と向き合ってきたなら、もう少しましな学界であったと考えています。でも、それ自体が無い物ねだりであるように思います。

その結果、私も含めて"流されてしまい"、風化を止めることができなかったと反省的に思っています。
by 鬼の城 (2012-09-20 08:48) 

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