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『日本考古学』の考古学 [学史]

「他の多くの学会と異なり、当協会は1948年の創立以来、会員の研究成果を発表する定期刊行物を持たないまま今日に至りました。これは、創立当時、先発の日本考古学会との間に交わされた紳士協約にもとづき、両学会の事業の重複と競合を避けるためにとられた措置であります。(中略) 日本考古学会の了承を得た上で機関誌を発行し、学会としての形を整えることを決定しました。」(横山浩一1994「創刊のことば」『日本考古学』第1号:巻頭.)

先行学会の了承を得ないと発行できない機関誌とは、どのようなものなのか?
なぜ「他の多くの学会と異なり」、そのような「紳士協約」などというものを結ばなくてはならなかったのか?
法人化という外圧が生じるまでは手を触れることさえなかったその「紳士協約」という名の縛りは、如何なるものなのか?
そもそも「学会としての形を整えること」がなかったとされた46年間とは、いったい何だったのか?
こうした疑問は、私一人だけのものではなかったようである。

「日本考古学協会が学会であるにもかかわらず、研究誌を持っていないことに、私はかねてから不自然さを感じていた。年に1ないし2回の大会と研究誌による研究活動が、学会の本来の姿ではないかと思うからである。そこで、古くからの協会の事情に詳しい人に聞いてみたことがある。どうやらその理由は、協会設立時にさかのぼってみなければならないらしい。協会の活動が日本考古学会の活動と抵触することを避けようと、創立時の人々は考えたようである。おそらく研究発表のためには、「考古学雑誌」があるからと考えたのではないだろうか。これは私の推測であるが。そして考古学協会は研究誌を持たないと考古学会と申し合わせしたとも聞いている。この申し合わせは口頭で行なわれたのであろうか、書かれたものはみていない。このあたりの事情は、協会設立時の事情に詳しい方から正確なことを教えていただければと考えている。」(古山 学1990「考古学協会に研究誌を」『日本考古学協会 会報』第111号:23.)

提言は、4年後に実現されて「不自然さ」は解消された。「申し合わせ」は「紳士協約」と名を変えて公認のものとなったが、その「不自然さ」の由来は解明されなかったし、別の「不自然さ」も同時に存在していた。

「日本考古学協会は1945(昭和20)年に発足したが(ママ)、その際会名の英文表記は”The Japanese Archaeologists Association”とすることに決定された。それは本協会結成当時、本協会が考古学のスペシャリストの集まりである(と、学生当時の私は聞かされていた)ことを特に強調したいという希望があったからではなかったかと推測される。当時の会則第2条には、「日本における考古学者が提携して考古学の研究をすることを目的とする」とある。またさらに、当時存在していた日本考古学会の英文表記”The Archaeologists Society of Nippon”も考慮されているであろう。」(田村 晃一1989「日本考古学協会会名の英文表記について」『日本考古学協会 会報』第107号:13.)

結局、在日会員からの意見などを参考にして、「不自然である」という提言がなされた翌年から英文表記は「日本考古学者協会」から「日本考古学協会」に変更された。しかし、その「不自然さ」の由って来る由縁は果たして上記投稿者の推測が正鵠を射ているだろうか?
ちなみに、日本考古学会の英文表記が”The Archaeologists Society of Nippon”であると述べられた根拠を現時点では見出すことができなかった。

「去る八月日本考古学会の代表者である原田淑人博士と日本古代文化学会の代表者である後藤守一教授と所用にて談合せられる機会を得たので、此の機会を喜び両先生に学会合併の内意をお伝へして此の意図を諮つた。両先生とも其の趣旨に賛成され、久しぶりに和かな談合が行はれたことは陪席した私の目頭を沽ほした。然し、両先生とも此の問題に関しては夫々学会の幹事会に諮られてから確答するといふ御返事であつた。」(杉原荘介1947「日本考古学界の現在」『歴史学研究』第125号:50.)

1946年8月28日、原田・後藤・犬丸・杉原の4人でなされた「中野・星岡会談」、その結果、日本考古学会からは「趣旨には賛成であるが、良い機会を得るまで現状を保持したい」との確答により、日本考古学会と日本古代文化学会の「合併」は未遂に終わった。他方の日本古代文化学会の「幹事会」で、どのような議論がなされたのかについては、仔細不明である。
ちなみに、杉原1947では杉原氏が「両先生に学会合併の内意をお伝へして」とイニシアチブを執ったかのごとくの記述となっているが、『考古学集刊』第1号(1948)の「学会消息」欄(無記名)では、後藤教授が原田博士に「学会の融合はできるのではなかろうか」と提案したとされている。
そして杉原氏が予測されたように(あるいは原田博士の回答のように)「両学会存置のまゝ何等かの連絡機関が設けられること」になった訳である。但し、日本考古学会は存置したが、他方の日本古代文化学会は発展解消した模様である。
「連絡機関」だから、「他の多くの学会と異なり」「学会であるにもかかわらず、研究誌を持っていない」し、「考古学者の集まり」という名称を掲げていた訳である。

これにもまた前史がある。
「考古学研究の三団体の合併は、急速に成就された。それは、あたかも第二次近衛内閣の「新体制」運動に迎合するかのような趣をもって一気呵成に行われたのである。しかし、それは斯学を挙げての合併にはならなかった。東京帝室博物館を牙城とする中心メンバーによって運営されていた考古学会は、日本古代文化学会の発足に刺激をうけてか会名を「日本考古学会」と改名したにとどまり、東京帝国大学人類学教室をバックとする東京人類学会はまったく動かず、また、大山柏の主宰する史前学会も微動だにしなかった。」(坂詰秀一1997『太平洋戦争と考古学』:206.)

それから5年後、今度は「微動」があった。学会誌である『考古学雑誌』を有する組織も「趣旨に賛成され、久しぶりに和かな談合が行はれ」て「目頭を沽ほした」のだから。しかし事は、「微動」に留まり成就せず、結果は「連絡機関」としての「登呂遺跡調査会」であった。

機関誌については、日本古代文化学会の『古代文化』は京都の古代学協会に、日本考古学協会は46年の縛りを経て市川の日本考古学研究所の『日本考古学』を受け継ぐことになった。
歴史は、様々な人々の思惑を孕みながら紆余曲折を見せて、地層形成をなしていく。

* 本稿については、『考古学のこうじ』における早傘氏のご教示に大いに助けられた。


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