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神田 孝平 [学史]

「今の蘭学者は悉く不便を感じて居るに違ひない。迚も今まで学だのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見やうと斯う思ふたが、此事も中々易くないと云ふのは、其時の蘭学者全体の考は、私を始めとして皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸で之を棄てヽ仕舞て英学に移らうとすれば、新たに元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ないつらい話である、譬へば五年も三年も水練を勉強して漸く泳ぐことが出来るやうになつた所で、其水練を罷めて今度は木登りを始めやうと云ふのと同じ事で、以前の勉強が丸で空になると、斯う考へたものだから如何にも決断が六かしい。ソコデ学友の神田孝平に面会して、如何しても英語を遣らうぢやないかと相談を掛けると、神田の云ふに、イヤもう僕も疾うから考へて居て実は少し試みた。試みたが如何にも取付端がない。何処から取付て宜いか実に訳けが分らない。併し年月を経れば何か英書を読むと云ふ小口が立つに違ひないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気が宜いから遣て呉れ、大抵方角が付くと僕も屹と遣るから、ダガ今の処では何分自分で遣らうと思はないと云ふ。」(福沢諭吉1899『福翁自伝』)

「英学の友を求む」と題された箇所において、人生の岐路を相談する第一の「朋友」として挙げられている。福沢は1835年生まれだが、神田は福沢より年長なのだろうか?
早速「ウイキペディア」で調べてみる。

神田 孝平(かんだ たかひら、文政13年9月15日(1830年10月31日)-明治31年(1898年7月5日)は日本の洋学者、政治家。兵庫県令、元老院議官、貴族院議員を歴任した。男爵。美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)出身。通称、孝平(こうへい)。

福沢より5歳年上であることが分かった。しかし、この項目に考古学の「こ」の字もない。
『Notes on Ancient Stone Implements &c. of Japan』(1884)、『日本大古石器考』(1886)を著し、日本人類学会の初代会長を務めたのに。
氏由来の蒐集資料が現在保管されている関西大学の角田芳昭氏の一連の業績(1982「明治文化の貢献者神田孝平翁」『阡稜』関西大学博物館学課程創設二十周年記念特集、1988「『日本大古石器考』資料論考」『斉藤忠先生頌寿記念考古学論考』など)はもとより、最近では、何時、誰と何処に行って、誰からどのような遺物を貰い受けたかといった事柄まで自筆書簡の分析がなされているというのに(杉山博久2011「創設期人類学会の庇護者 -神田孝平小伝-」『考古学雑誌』95-4,96-1)。
誰かウィキペディアに加筆してくれないだろうか。

ついでに手元にある辞典で少し調べてみる。
神田 孝平(かんだ たかひら) 天保九―明治三一(1838-1893) 名はもと孟恪。孝平は通称。明治四年(1871)に孟恪を改め孝平と称した。号は有不為楼、のち淡涯と改めた。・・・」(斉藤 忠1984『日本考古学史辞典』東京堂出版:133.)

ん?
ウィキでは1830年生まれ、斉藤1984では1838年生まれ、8年の齟齬がある。
ウィキでは1898年没、斉藤1984では1893年没、5年の齟齬がある。
すなわちウィキでは享年69歳、斉藤1984では56歳となってしまう。
いったい、どっちが。

ところが斉藤1984をよくよく読めば、その答えは自ずから。
「弘化三年(1846)17歳のとき京都に赴き研学し、・・・」
あるいは
「明治三一年(1898)七月四日男爵の爵位が授与されたが、七月五日没した。享年六九歳。」

どうして、このようなことが生じてしまうのか、さっぱり訳が分からない。
改版時には、訂正される(されている)ことだろう。


タグ:学史
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