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藤井2007「統治の秘法」 [論文時評]

藤井 祐介 2007 「統治の秘法 -文化建設とは何か?-」『大東亜共栄圏の文化建設』、人文書院:11-73.

「明確な時期はわからないが、大同攻略と前後して京都の末永雅雄のもとに北支那方面軍司令官、寺内寿一から一通の手紙が届いた。当時、末永は奈良県史蹟天然記念物調査会の一員として、石舞台古墳の発掘調査を指揮していた。手紙の内容は「大同の石仏を傷つけずに北支派遣軍で保護している」「今後の保存処置についての意見も聞きたい」というものであった。
末永雅雄は陸軍関係の知人・友人が多かった。1937年6月、末永は東亜考古学会の内モンゴル調査に参加する直前、奉天に立ち寄っている。目的は関東軍司令官、植田謙吉との会談であった。植田は満洲国の遺跡保存に関心を示していた。会談の席上、植田は同郷(大阪・狭山)の後輩である末永に、遺跡の調査・保存について相談した。末永によれば、植田は「とくに熱河離宮の修理と保存、通溝の徹底調査と保存事業、各地の民俗調査による日本との文化関係の解明を考えておられた」。だが、結局、この計画は実現しなかった。
寺内寿一が末永雅雄に相談をもちかけたのも、寺内と末永とをつなぐ陸軍内の人脈があったからだろう。寺内の依頼を受けて、末永が京都帝国大学文学部出身の考古学者たちに相談したところ、水野清一が名乗りでた。東方文化学院京都研究所(1938年から東方文化研究所に改称)に勤務していた水野は、過去に数回、中国の遺跡調査を担当していた。末永は石舞台古墳をはじめ各地の発掘調査に関係していたことから辞退したが、以後、末永は陸軍との交渉を担当する「黒幕的存在」として、水野たちを支援した。」(24-5.)

末永雅雄1986「大同石仏の調査企画」『日本考古学への道 一学徒が越えた』では、寺内寿一元帥の肖像写真が掲載されると共に、水野清一氏がまとめた本報告書(1952年:本篇、1956年:補遺)に寺内北支派遣軍司令官および片岡第四師団参謀長に対する謝辞がないことに対してのクレームが述べられている。 

「石舞台・高松塚・藤ノ木―大和の遺跡に光をあてた一人の学者と考古学界の人間模様」をうたう書籍(向谷 進1994『考古の巨星 -末永雅雄と橿原考古学研究所-』文藝春秋)では、1937年の末永雅雄氏に関する動向は唐古遺跡の調査のみが記される。
唯一関連しそうな部分は、以下のみ。

「戦前に関東軍司令官だった植田謙吉陸軍大将の屋敷は、末永家の裏門を出てすぐのところにあった。植田が騎兵中佐か大佐のときに、村に帰って来たことがある。雅雄は颯爽とした三十代半ばの植田の軍服姿に憧れた。
「わしは陸軍大将になるんだ」
雅雄は小学校を卒業したら、軍人になるために大阪の陸軍幼年学校に入りたいと思っていた。」(向谷1994:16.)

結局、末永は母の反対により陸軍幼年学校の受験を断念、考古学の道に進んだ。
1917年に徴兵により大阪の騎兵第四連隊第三中隊で三年間の軍隊生活を送り除隊する。その際に、自分の用いていた愛馬を貰い受けた(同:24.)というから、異例のことだろう。

1938年に今西錦司幹事長のもと京都探検地理学会が設立された。
「祖国日本は現在国を挙げて大陸に行動し、然も着々としてその成果を収めつゝあり。この時に当り我等学術の研究に携はる者均しく国家の目的を認識し、之が実現の為力を致し、学術の進歩と国運の発展を助長すべき義務を感ずる。
由来地理学に関係ある学問を攻究し来つた我等は、この際瑣末なる国内的問題に限られることなく、自然科学的にも、文化科学的にも、日本の母体たる大陸に眼を転じ、或は南方諸島に視界を拡めるべき時代に立至つたことを痛感する。
調査に対する熱意、海外進出の夢、国家と運命をともにする研究者―ここで注意すべきは日本と大陸との連続性が強調されていることである。日本を知るために「日本の母体」である大陸での調査が必要とされる。東亜考古学会と同様、ここでも学術調査と海外進出が一対のものとして設定されているのである。」(36.)

「支那内地に吾々の学術的勢力を発展することは、日支親善の意義に協つた、吾々の天与の使命ではないか」という濱田耕作(1917「我国考古学の将来」【2013-10-31】)と同型の思考・指向である。
ちなみに京都探検地理学会会長は、濱田亡き後第12代京都帝国大学総長羽田 亨である。


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