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日比野・水野1943『蒙彊に於ける最近の考古学的発見』 [全方位書評]

日比野 丈夫・水野 清一 1943 『蒙彊に於ける最近の考古学的発見』 大東亜学術叢誌1、大東亜学術協会
日比野 丈夫 蒙彊陽高懸の古墳調査に就いて:1-28.
* 水野 清一   古城堡漢墓の発掘:29-66.

「いまや大東亜建設の秋にあたり、共栄圏に関する諸般の学術研究の成果を、一般に普及し拡充することが刻下の喫緊事たるはいふを俟たない。
わが大東亜学術協会は、一にはかゝる目的のために成立せるものであつて、大東亜共栄圏の風土・民族・文化を調査研究し、その成果を一般に普及し、大東亜新文化の建設に寄与せんことを以つて念願としてゐる。本協会は昨年六月誕生以来、これがために諸種の事業を実施して今日に及んでゐる。
今回またこれが目的に添はんとして、小冊子「大東亜学術叢誌」の刊行を計画し、その第一冊として「蒙彊に於ける最近の考古学的発見」を公にすることになつた。本叢誌は今後その内容を文化科学と自然科学とに限らず、広く大東亜共栄圏の学術に関するものを収め、活発に続刊せんとするものである。
本書は昨年12月19日、本協会の第2回談話会として京都藤井氏の有鄰館で催された水野清一、日比野丈夫両氏の講演速記を収録したものである。」(1-2.)
 

「大東亜学術協会」は、1942年6月に京都帝国大学東方文化研究所所員を中心として発足した文化団体で、1947年に「東方学術協会」に改称されたという(長廣敏雄1988『雲岡日記 -大戦中の仏教石窟調査-』日本放送出版協会:143頁、177頁)。本書の奥付を見ると、編輯者である日比野氏の所属は「大東亜学術協会」、住所は「京都市左京区北白川小倉町50・東方文化研究所内」となっている。
「東方学術協会」は、1948年に現在の「財団法人東方学会」に引き継がれる。ただし、東方学会の略史には東方学術協会については述べられているが、大東亜学術協会については触れられていない。

「私はかういふ考古学的発掘の仕事は全然初めてゞございまして、たゞあちらへ行きまして苦力をどなりつけたり、ボーイを叱り飛ばしましたり、さういふ無茶ばかりやつてをりましたわけで、さういふことに対する雑談を少しばかりさしていたゞきまして、のち水野さんが見えまして本式の話をお願ひする、まあそれまでの時間埋めのお笑ひ草に一寸お話をさしていたゞくのであります。それにはかういふお座敷では甚だ恐れ多いのでありますがどうか宜しくお許しを願ひます。」(日比野:1.)

本書の元となった大東亜学術協会第2回談話会が開催された1942年12月、日比野氏は東方文化研究所副研究員(28才)、水野氏は同研究所研究員(37才)であった。
当時20代の日比野氏が中国大陸で中国人作業員に対して、どのような「無茶」を行なったのか、ある程度想像もつくが、恐らく実態は私たちの想像を上回るものであったに違いない。

「何故かういふところの発掘をやつたかといふことを少しばかり申しますと、昨年の秋に萬安懸の古墳が、東方文化研究所の大同石佛の調査をやつてをられました水野さん長廣さんあたりの手で発掘されました。随分いろんな珍しいものが出まして、この辺一帯にセンセーションを起したのであります。その結果、陽高の方にもかういふ古墳があるから一つ掘つてみたらどうか、といふことを当時懸の参事官であつた田村といふ人が提案されたのであります。それでは面白いから一つ掘らうぢやないか、といふことになりました。」(日比野:8.)

晋北傀儡政権の肝煎りで「大同石佛保存協賛会」「陽高懸史蹟保存会」なるものを作り上げ、「時局下大変有意義なことであつて、それは一般の住民の宣撫にもなる」(9.)との理由で、「面白いから一つ掘らうぢやないか」ということになったようである。

「苦力の募集にはこの古城堡の村公所が懸公署の命令を受けて當りました。その各村の割當は、私共から今日は六十人人夫を出せ、今日は五十人人夫を出せと申しますと、村公所からこの村は三人来い、この村は四人来い、この村は二人来いといふ風で引つ張つて来るのです。しかし只使ふのと違ひます。最近までは人夫の賃金は普通一圓二三十銭、この頃はもう少し多く一圓五六十銭、高いところでは二圓位の出してをります。それを普通より少しやすくで雇ふ。その代り相手もさるもの一人前に働く大人はちつとも来ない。よぼよぼの爺とか七つ八つの子供が来る、しかしこつちも負けてゐない、そんなものは駄目だといつて中途で帰し、お前はもう一日中幾ら働いても一銭もやらぬ、もつと元気な親父を呼んで来いといつて追ひ返します、そういふと子供は泣き泣き帰つたりしますが、それ位やらぬとなかなか彼等の方がうは手でこちらがやられてしまふのであります。」(日比野:14-15.)

発掘作業員の募集は希望者を募るのではなく、地方行政体を通じた強制的割り当て制度であることが述べられている。軍事施設などを構築する際の「軍夫」などの募集形態と同様と思われる。一家の中心的な働き手を低賃金で供出させられ、泣きながら帰った子供の心情はいかばかりだろうか。

調査日誌は小野・日比野1946『蒙彊考古記』星野書店、考古誌(報告書)は小野・日比野1990『陽高古城堡』東方考古学叢刊 乙種第八冊、六興出版として刊行されている。


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