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戦後意識 [学史]

「戦後意識」なるものが問われている昨今である。 

「楽浪の調査研究は、戦争がひどくなってからも細々とつづけられ、昭和17年と18年には石厳里で木槨三基が、また18年と19年には同じく石厳里で塼槨四基が調査され、さらに19年には土城址で小発掘が遂げられたと聞いている。ことに17年発掘の木槨は周囲に板石をめぐらした珍しいものであったという。
楽浪遺跡の調査がすすむにつれて、保存の工事も続けられた。さきに昭和の初めに王盰墓の封土が復原され、なかの木槨の様子もわかるように施工されていて、その後になって彩篋塚が移築されたことはいま記した通りであるが、さらに楽浪郡治址の40ヘクタールにも及ぶ場所も、楽浪公園として造成するための費用の計上され、さきに述べた歩道や井戸そのほかのものが実地に見られるように計画されていたのである。おしいことに実現をみないうちに昭和20年になってしまった。」(駒井 和愛1972『楽浪 -漢文化の残像-』中公新書308:34-35.)

当事者ゆえの感慨なのか。それにしても1972年である。
1953年の第3次日韓会談で交渉を決裂させた「久保田発言」が撤回されてからも、18年が経過している。

「第二次大戦後、日本の敗退と共に、この地域の調査は、それぞれの国の人々が行なうという正常な形をとりもどした。すなわち、大戦後、政治的主権をとりもどした東北アジア地区の各国は、民族の発展の精神的なよりどころとして、民族の歴史を正しく理解し、文化遺産を継承していくという要請から、考古学的研究がとくに活発となった。」(田村 晃一1972「東北アジア考古学の発達」『考古学概説』駒井 和愛 編、講談社:245.)

同年に発表された文章だが、「日本の敗退と共に、…正常な形をとりもどした」というからには、日本の敗退以前は非正常な形、異常な形であったという理解が前提となっている。単に遺跡整備や保存がなされたということを自賛するのか、それとも当地の人々の「精神的なよりどころ」とされる調査であったのかを見極める意識を有していたかどうかが、分かれ目となっている。

「慶州の地を愛し、遺跡に融けあい、そして多くの人びとに、ことに発掘の作業の人びとや、その周辺民家の人びととも心から親しくしたり在りし日の生活は、今なお記憶に鮮明なものがある。その後、しばしば慶州の地を訪れたが、当時の友人たちは「先生、お里帰りですね」と微笑して迎えてくれる。文化財の観覧施設も、案内の人が「昔の慶州博物館長です」というと、笑顔でもって接してくれる。それは、国と民族とを超越した人びととの心と心との交わり、文化財の保存へのひたむきの努力をなしたことへの、韓国の人びとの私に対するあたたかい報償のように思われてならない。」(斎藤 忠2002『考古学とともに七十五年』学生社:71.)

植民地下の表面的な「心と心との交わり」によって「国と民族とを超越」できると考える。
単に無自覚なのか、それとも意図的な遮蔽なのか、いずれにせよある加害の論理(心理)である。

「朝鮮総督府は、今西などからの調査報告書で、伽倻地方全域の古墳がいたるところで盗掘され、副葬品がぞくぞくと骨董商などへ流出していることに、いまさらのようにあわてふためき、他の地方とくらべ無傷の古墳が多いと推測した昌寧校洞一帯の約一千基にのぼる古墳群をいそいで発掘しはじめた。
関野の助手として古墳調査に随行した古参の調査員、谷井済一は、そのとき出土した副葬品が「馬車二十台と貨車二台分の量であった」(『古蹟調査報告書』1917年)と証言していることからみても、善山・咸安・晋州などの伽倻地方で、日本人略奪者が奪った遺物の量の多さは想像にかたくない。
そのなかでも、純金製の耳飾りなどの金製遺物は、日本人蒐集家のあいだで珍重され、人気が高かった。ソウルなどの日本人骨董商のもとに流出していき、利益幅が大きいうま味のある商品として売買されたのだ。
古蹟調査員の主幹格の藤田亮策は、その全貌の一端をつぎのように記録している。
「朝鮮で発見された耳飾りはじつに相当な数で、学術的発掘調査を行なったものだけでも七十対に達するが、個人の秘蔵品となって、朝鮮と東京、京都にあるものも大変多い。東京の根津嘉一、京都の清野謙次と守谷孝蔵が持っているものだけでも数十対である。それらの大部分は、新羅と伽倻地方の慶州、達城、善山、安東、星州、陜川、高霊、居昌などからの出土品だと伝えられている」(李 亀烈(南 永昌 訳)1993『失われた朝鮮文化 -日本侵略下の韓国文化財秘話-』新泉社:180-181.)

なされた事柄を明らかにする、その心の奥底に深い怒りが秘められている被害の論理(心理)である。

「日本が朝鮮半島で犯した罪の痕跡は朝鮮半島のいたるところに残っており、足元に存在する在日朝鮮人七〇万の深い記憶のなかに癒されないまま刻まれている。老いたものからは安らぎを奪い、若者からは未来を奪い、幼い子どもからは笑いを奪い、その一人一人の尊い人生に計り知れない苦痛と悲しみを与えた植民地統治の罪過を、日本は日本人である前に一人の人間としてその痛みを共有し、そして謝罪し償わなければならない。(中略)
アジア・太平洋戦争から起きている補償問題は、冷戦後21世紀に向かって新たな世界秩序を構築する上で、日本にとっては一つの、そして最後のターニングポイントである。「冷戦崩壊」ではなく「アメリカの勝利」を唱って止まないブッシュ、歴史の逆流ともいえるその主張への「国際貢献」ではなく、未決の戦争責任、植民地支配の清算を行うことが、真の国際貢献につながるのではなかろうか。そして、その要が”朝日国交正常化交渉がどのような内容で決着を見るのか”、であることに日本は気づくべきだろう。「冷戦時代」の枠組みで解決してはならない。朝鮮と日本の歴史の清算は、実は日本の「根本」にかかわる問題が問われており、それはまた日本がいかに冷戦を克服するのかという点で朝鮮と日本の間の問題に留まっていない。」(金 昌宣1992『加害と被害の論理 -朝鮮と日本そして在日朝鮮人-』朝鮮青年社:200-201.)

「おしいことに、昭和20年になってしまった。」 名言である。
泥濘の道」とは、対極に位置する。

文化財返還問題は、「日本の「根本」に関わる問題」である。
「一人の人間として」70年後の私たちの「戦後意識」が問われる所以である。


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コメント 4

NO NAME

東大などの現在の関係者が駒井和愛をどのように評価しているのか、それが知りたいです。
by NO NAME (2015-06-30 17:05) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「恩師、東京大学名誉教授、早稲田大学客員教授、文学博士、駒井和愛先生は1971年11月22日早朝、血栓で急逝された。門下生一同にとって驚愕と痛恨のきわみであった。数年前に先生は、中公新書に戦前原田淑人博士らと数次に亘って調査された、北朝鮮平壌付近にある、漢代の楽浪郡治址についての執筆を引き受けておられた。逝去後、先生の書斎から、そのほぼ完成した原稿が発見された。本書はその原稿を私たち二人が編集したものである。
未亡人より原稿をお預かりした私たちは、朝鮮考古学への造詣もとより浅い身であったが、数次に亘って原稿をよみ、討議した結果、若干の章・節のくみかえ、およびそれに伴う文章の追加、語句の統一、図版の選択などを行なった以外、ほとんど原文を動かすことなく編集部に渡した。」(中川 成夫・田村 晃一1972「あとがき」『楽浪』中公新書308:175.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2015-06-30 19:49) 

NO NAME

現役の関係者も同様・・・ということでしょうか・・・。推して知るべし・・・ということでしょう・・・。
by NO NAME (2015-07-01 16:49) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

名言を述べた当人はもとより、そのことを批判しきれない後学の者たちも、植民者意識が抜け切れていないということなのでしょう。
いま巷で話題となっている「日本の産業革命遺産」登録問題についても、日本の産業革命や近代化が植民地主義と表裏一体であったという認識を少しでも持つならば、申請書においてそうした負の側面を無視して済むはずもなく、対象とする時期を1910年までとするなどというあからさまな政治主義を持ち込まなければ何の軋轢もなくスムーズにことは運んだことでしょう。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2015-07-06 20:35) 

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