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ナンタ2016「植民地考古学・歴史学・博物館」 [論文時評]

アルノ・ナンタ(Arnaud Nanta)2016「植民地考古学・歴史学・博物館 -朝鮮半島と古代史研究-」『帝国を調べる -植民地フィールドワークの科学史-』坂野 徹編、勁草書房:47-84.

「日本人研究者が朝鮮半島で実施した学問研究のなかで、本章で注目するのは考古学である。19世紀に誕生した近代考古学は、同時期に形成された国民国家におけるナショナル・アイデンティティの創造過程で重要な役割を果たすとともに、世界各地の植民地(特に地中海と東アジアの各植民地)において、征服地域を把握するために不可欠な学問となった。」(48.)

編者の坂野 徹氏と慎 蒼健氏が中心となって2005年に組織された「植民地と学知研究会」による2010年の論文集『帝国の視覚/死角 -<昭和期>日本の知とメディア-』(青弓社)に次ぐ成果の論考である。2012年からは、「帝国日本のアジア地域における人類学・衛生学に関する歴史研究」(日本大学経済学部中国・アジア研究センター)という研究プロジェクトが直接の母体となっているようだ。
アルノ・ナンタ氏は、フランス国立科学研究センター(CNRS)に所属する研究者である。

「まず、1915年に創設された古蹟調査委員会と朝鮮史編纂委員会(編修会)および博物館ネットワークは、日本による支配に大義を与え美化する、植民地の学知を構築する基盤となった。ベネディクト・アンダーソンは、仏領インドシナとイギリス領インド帝国を例に、植民地権力は「現地人」の過去を演出することによって自らの効率性の良さ、そして「無能」な「現地人」に代わって実行した文化財保存政策を強調していたと指摘している(Anderson1991:chap.10)。植民地朝鮮においても、考古学と歴史学の成果は、その結論と関係なく、植民地社会の過去を対象にした言説を事実上独占することで、朝鮮人に対する一種の「植民地家父長主義」と結びついていたといえるだろう。」(59.)

ベネディクト・アンダーソン以降のポストコロニアルな時代認識において、考古学は植民地統治における「必要不可欠な学問」の一つであり、その「基盤」を構築していたという認識については、誰もが否定できないだろう。

「総督府は確かに「朝鮮の文化遺産保存」につとめたが、これは同時に、日本による支配を正当化するためのレトリックでもあった。文化遺産の保護は、日本による朝鮮統治と同様、終わりのない事業であった。なぜなら、帝国日本の施政が「成功」し、朝鮮総督府がいずれ朝鮮半島から去って帰ることはあり得なかったからである。」(60.)

「日本人の行なった古蹟調査事業は、朝鮮半島の文化遺産を保存する役割を果たした」といったことだけを主張するのは植民者特有の独善的言説である。
もし戦後生まれの研究者が同じような主張をするのなら、単に自らの希望を述べるのではなく、しっかりとした学問的な根拠を提示すべきであろう。 

「植民地権力による前述の研究は、当時の朝鮮人(さらに解放後の韓国人)による歴史記述に対して大きな影響を及ぼしたが、博物館および古蹟調査委員会がおこなった古蹟調査を経ても、日本人の研究者が有した「半島史観」はあまり変わらなかった。したがって、調査へ参加できず必然的に文献に頼った朝鮮人による歴史記述は、文献学偏重の総督府による研究と基本的に同質だったといえる。日本人研究者は、発掘調査の成果によりながら上代史を解明したと断言したが、しかし実は事前に完成した朝鮮史観に収まるように物的資料を「解釈」していたのだった。」(70.)

当時の「日本考古学」がいかに「文献学偏重」であったかは、良心的と言われる研究者ですら「記紀」の影響から完全に自由でなかったという諸事例を見るだけで歴然としている。

「植民地状況下でおこなわれたこうした事業は、成果を生み出せなかった大韓帝国期の試みに続いて、朝鮮半島の過去を捉えようとしたわけだが、そのなかにあって、上代遺跡および文化財「保護」という御旗は、植民地統治を正当化するためのスローガンだった(54)。」(71.)
「(54)  今なお未解決である文化財返還問題には、考古学的遺物も関係している(大韓民国文化財管理局(編)1986『海外所在韓国文化財目録』ソウル、荒井 信一2012『コロニアリズムと文化財 -近代日本と朝鮮から考える-』岩波書店)。」(78.引用者一部補)

「考古学的遺物も関係している」どころか、「考古学的遺物が主体をなしている」ように思われるのだが。

「植民地考古学」を論じるにあたっては、何よりもまず「植民地とは何だったのか」という基本姿勢を明らかにしておくことが重要であろう。

「私は、ひとまず植民地主義の本質は、力による異民族支配にあり、したがって差別、抑圧、暴力、搾取、支配従属関係がその基調をなすとみるべきだと考える。」(板垣 竜太2004「<植民地近代>をめぐって -朝鮮史研究における現状と課題-」『歴史評論』第654号:41.)

こうした基本的視座に立って、何がなされたのか、そしてその結果が現在どのような形で継続しているのか、ということについて検討されなければならない。

「お役人学者に至つては、政府の押しつけたでたらめの古代史を批判することなど全くなく、たゞ遺物を集めて「こんな形のものがでた、これと似たものがどこそこにある」とか「これとこれを比べるとこつちの方が古そうだ」とかいつてみるだけでした。」(陳 顕明1953「いままでの考古学とあたらしい考古学」『吉備地方史』第9号:22.)

1950年代に主張された「あたらしい考古学」は当時広く受け入れられることはなく、現在に至るまで「いままでの考古学」という第1考古学が大勢を占めている。
「お役人学者」もまた、戦時期の「東亜考古学者」だけでなく、現在の「日本考古学」においても主流である。
これは、研究領域の違いに関わらない。ということは、朝鮮半島をフィールドとしていようと、さらには「植民地考古学」を専門としていても、ということである。

誤解のないように付け加えておくと、これはあくまでも一般論として述べているのである。


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