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京都大学が所蔵する慶陵武人像が日本に持ち込まれた経緯について [学史]

「京都大学に所蔵される壁画武人像は、東陵(興宗陵)墓道西壁に描かれていた儀仗兵のひとりである。東陵では、墓道のみならず、墓室各壁面にも現地の春夏秋冬の風景を描いたいわゆる「四季山水図」をはじめとするさまざまな壁画が描かれていたが、結果としては、この武人像のみが緊急保存措置として日本に将来されることになった。以後、この壁画は、1952〜3年の『慶陵』の出版で紹介されたことをのぞき、おおむねは隔離保存された。(中略)
武人像壁画は、遼文化の素晴らしさを証明する実物であり、この時代の東アジアの歴史について、北宋を中心にとらえがちだったこれまでの通念に再考を迫るものである。また、戦前・戦後の不幸な時代をのりこえて、現在から将来にわたる日中文化交流のかけ橋となるものであり、さらには人類文化の屈指の遺産のひとつでもある。」(京都大学ニュースリリース 2006年5月30日 京都大学文学部百周年記念展示「百年が集めた千年」 )

慶陵の壁画については、1952年の本報告刊行以前に『美術研究』という東京国立博物館が発行する雑誌にその概要が報告された(1949「慶陵の壁畫 (上)・(中)・(下)」『美術研究』第153号・第155号・第157号)。

「もともと、壙道部は露天にして、床面から両壁頂にいたる空間は、割石を混じる砂土をもつて充填されているため、壁畫はいずれも土砂の密着することによつて、いちじるしく汚損されており、とくに西方壁面は、東方壁面に比してそれが一そうはなはだしく、人物の一人一人を識別することすら困難を感じさせる。ところが、ただ羨門にもつとも近く立つ第一の人物像のみは、さきに第四章陵墓の構造の條において一言したように、入口を封鎖するため、羨門の前方に高くつみ上げられた塼によつて、かろうじて土砂の密着による汚損からは免れ、かなり鮮明にのこつていた。(略)
なお、壙道部の壁面は露天である上に、さきにものべたように、割石を混じた砂土をもつて埋めつくされていたため、漆喰の中にまで土砂が深く喰い入り、両壁面とも羨門に近い第一人物をのぞく以外は、ほとんど識別しがたいまでに汚損されていることは、まことに惜しむべきしだいであり、…(以下略)」(田村 實造1949「慶陵の壁畫(中)」『美術研究』第155号:165-166.)

京都大学にもたらされた「武人像」は、ここで記された「羨門にもつとも近く立つ第一の人物像」にあたる。すなわち、他の人物像は「ほとんど識別しがたいまでに」「いちじるしく汚損されて」いたが、この人物像のみが「かろうじて汚損から免れ、かなり鮮明にのこつていた」のである。 しかしこの「第一の人物像」について、これ以上の記載はない。

本報告『慶陵』では、「日本に将来されることになった」経緯についてどのように記されているだろうか。

「もっとも壙道部は露天であって、床面から東・西壁頂にいたるまでの空間は、割石を混じた砂土をもって充填されていたため、壁画はいずれも土砂が密着して、ひどく汚損されている。とくに、西壁面は東壁面にくらべて汚れがひどく、人物の一人一人を識別することすら困難をおぼえる。ところが、羨門に最も近い畫像(64)のみは、さきに第二章第一節、東陵墓室の構造の條において述べたように、入口を封鎖するため羨門の前方に積み上げた塼によって、かろうじて土砂の密着による汚損からまぬがれていたが、これらの塼をとりのぞくとともに、表面が一センチほどの厚さをもって、やや大きく剥げ落ちたため、断片を採集してその七分身以上は、ほとんどもとの相(すがた)にまで修補復原することができた(Pls.92,93)。(中略)
壙道部の発掘に際しては、細心の注意をもってのぞんだにもかかわらず、壁面に密着した土砂が取りのぞかれるにつれて、壁面の漆喰に亀裂を生じ、それが剥脱するのを避けることはできなかった。」(田村 實造・小林 行雄1952『慶陵 -東モンゴリアにおける陵代帝王陵とその壁畫に關する考古學的調査報告- Ⅰ』京都大學文學部、図版編である第Ⅱ巻のPlate92「壙道西壁の畫像 第一 第二次壁畫」はモノクロ図版、Plate93同題はカラー図版が掲載されている。)

殆ど1949年の記載をなぞったものである。京都大学が所蔵する武人像は「64」という番号が与えられている。そして東陵の壙道部の西壁面には「64」から「71」までの8人の人物像が描かれているのだが、「64」は最も低い位置である羨道寄りの場所に位置していた。西壁は東壁に比べて壁画の保存状況はよくなく、そのうちの最も状況が良好であった(「かろうじて」汚損を「まぬがれていた」)「64」のみが、「やや大きく剥げ落ちた」という。当該部の掘削については、「細心の注意をもってのぞんだにもかかわらず」不可抗力によって最も保存状態が良好な人物像のみが自然に「剥げ落ちた」とされる。偶然にしては、出来過ぎた出来事である。

「壙道部は露天で、床面から東・西壁頂にいたるまでの空間は、割石を混じた砂土をもって充填されていたため、壁画はいずれも土砂が密着してひどく汚損されている。とくに西壁面は東壁面にくらべて汚れがひどく、人物一人一人を識別することすら困難である。ところが羨門に近い畫像(64)のみは、入口を封鎖する羨門の前方に積み上げた塼によって、かろうじて土砂の密着による汚損からまぬがれていたが(『慶陵』Ⅰ、第二章第二節「墓室の構造」参照)、これらの塼をとりのぞくとともに、表面が一センチほどの厚さで大きく剥げ落ちたため、断片を採集してその七分身以上は、ほぼもとの相(すがた)にまで修補復原することができた[原色図版五]。(中略)
壙道の発掘にあたっては細心の注意でのぞんだにもかかわらず、壁面に密着した土砂がとりのぞかれるにつれ、壁面の漆喰にひびわれを生じて剥脱するのを避けることはできなかった。」(田村 實造1977『慶陵の壁画 -絵画・彫飾・陶磁-』同朋舎:84-85.巻頭の原色図版五には「東陵 壙道 西壁面の人物画像」と題して原報告と同じ写真が掲載されている。)

本報告からおよそ四半世紀後に記された文章だが、これまた殆どなぞったものである。強いて言えば「…表面が一センチほどの厚さをもって、やや大きく剥げ落ちた…」という文章から「やや」という副詞が欠落したことぐらいだろうか。
これはもう「自文引用」といった域に留まらない「使い回し」の実態がよく分かる事例である。

「ところがさらに、われわれを驚かしたのは、これらの人物画のうちの一人分の画像が、人夫のスコップの先端に当って三つの大きな破片となって、はがれ落ちた(この大きく裂け落ちた漆喰破片は、丁寧に保管して持ち帰り、小林君の手によって見事に復原された(図35))。」(田村 實造1994『慶陵調査紀行』平凡社:194.)

「われわれを驚かしたのは」、「いつか日時も経過して調査行を共にした友人たちのうち、原田君をはじめとする坂本、斎藤、山本、釣田の諸君がつぎつぎと病没し、最後に小林君までも亡くなって、はじめて最年長である著者ひとり生き残ったことに気付き目が覚めたような気持ちで、ここに鎮魂の意をこめて」(同:264.)執筆された著書において、今まで自然に「剥げ落ちた」とされていた武人像について、初めて「人夫のスコップの先端に当って」と中国人作業員による人為的過失が原因とする説明がなされたことである。
しかし事の真偽を確かめようにも、この時点で現場を知る関係者は全て亡くなっていた。
なぜこの時まで、こうした経緯が秘匿されてきたのだろうか?
そしてなぜこの時点で、こうした新たな事柄が明かされたのであろうか?

「…1939年時点での京大による慶陵の調査もまた、大日本帝国の生命線と喧伝された「満州国」(満蒙)を植民地として維持するための侵略戦争の一環として行われた「満州国の文化工作」として理解すべきであろう。そのような歴史的脈絡を踏まえるならば、当然のことながら慶陵東陵から剥ぎ取り、略奪同然に日本に持ち込んだ「武人像」を中国に返還する責任が日本人にある。京大の「地下室」「収蔵庫」に「秘匿」されてきた真の理由もそこに見え隠れしていよう。(略)
調査過程で偶然に「はがれ落ちた」漆喰片を持ち帰るのと、意図的に「はぎ取って」持ち帰るのでは大きく意味合いが異なってくるようにも思う…」(黒尾 和久2006「京大保存「慶陵武人像」に何を語らせるべきか」『古代史の広場』特別編:42-43.)

冒頭2006年京都大学の記念展示による「隔離保存」解除の報道を受けて記された文章である。

以後今日に至るまで、京都大学はこうした真摯な問題提起を受け止めて何らかの応答を行なったのだろうか。

「昭和32年、中国からの招待で日本考古学代表団が、戦後初めて中国を訪問した。原田淑人博士を団長とし、考古学者7名が参加したが、京都からは水野先生と私と岡崎敬君の三人が選ばれた。北京で中国側代表の郭沫若社会科学院院長から水野先生へ一包の故紙が手渡された。それを受け取った時の水野先生の嬉しそうな顔が、今も思い出される。それは雲岡石窟第十八洞の実測図で、先生と田中重雄氏が5年がかりで、苦労して製作したものであった。昭和20年終戦の混乱の中、田中氏が北京まで運んだが、国外搬出が許されず、残してきた。昭和30年、郭沫若氏が日本学術会議の招待で来日された際、京都で水野先生が郭沫若氏に対して、この実測図の所在確認を要請された。郭沫若氏がそれに答えて、探しだし、返却されたのであった。その後これらの実測図は、水野先生の死後、田中氏によって清書され、日比野丈夫氏らが『雲岡石窟』の続補として、一巻を追加出版した。日中友好の結実と、京大人文科学研究所の結束の堅さが示された一件であった。」(樋口 隆康1994「水野清一博士」『考古学京都学派』:156.)

占領地で調査し現地に残してきた資料が現地の研究者の好意によって、調査者に「返却」された。
このことが、「日中友好の結実」として高く評価されている。
しかし占領地で調査して帝国日本に持ち帰られた「武人像」は、未だに「返還」されることなく「日中文化交流のかけ橋となる」と自画自賛されている。

「…「秘蔵」されてきた「武人像」については、保存処理が済んだ時点での中国返還にむけての話し合いがもたれなければならない。「武人像」返還が実現されたとき、初めて「武人像」は「戦前・戦後の不幸な時代をのりこえて、現在から将来にわたる日中文化交流のかけ橋となる」はずである。」(黒尾2006「京大保存「慶陵武人像」に何を語らせるべきか」:45.)


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