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崔2016「日本帝国の外地朝鮮統治と古蹟発掘、そして文化財の行方」 [論文時評]

崔 錫榮(金 廣植 訳) 2016 「日本帝国の外地朝鮮統治と古蹟発掘、そして文化財の行方」『博物館という装置 -帝国・植民地・アイデンティティ-』石井 正巳編、勉誠出版:336-366.

崔 錫榮氏には、4月23日に早稲田大学で行われた研究集会「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究」において、お目にかかっていたのであった。

「本稿では、日本帝国が外地朝鮮で行った古蹟発掘調査とそれに関連する法の制定・運用、植民地博物館の創立とその営みなどを検討し、日本帝国と外地の間で行われた文化制度の「差別的」運用こそが終局的に今日の文化財返還の歴史的背景に繋がっているということを明らかにしたいと思う。」(337.)

かつての植民地支配あるいはそれを支える植民地主義を肯定する人ないしは否定するにしても「それでも」とか「なお」といった留保を付す人は、すべからく「差別的運用」あるいは差別そのものを何らかの意味で肯定していると考えなければならない。

「朝鮮が日本帝国の外地になってから6年も過ぎた1916年7月に至ってようやく、それも僅か八条に過ぎない「古蹟及遺物保存規則」が朝鮮総督府令(第52号)で制定され、1933年8月に廃止された。無論その府令の全文が八条に過ぎないだけが問題になるわけではない。それよりはむしろ外地朝鮮で出土した遺物を朝鮮の外に搬出してはいけないという条項がないということが問題の本質である。これこそが日本と植民地間における「相違点」を示す点であるといえる。植民地期に遺物の国外搬出を禁止する法的装置が存在しなかったため、日本をはじめアメリカ、ドイツ、フランス、中国の他に台湾へまで「自由に」外地朝鮮の遺物が流出した。当時の日本帝国は朝鮮の外地化を不法ではないと考えていたとはいえ、遺物が朝鮮の外へ流出することを禁止する方法を講ずる必要がなかったという主張は成り立たない。なぜなら、朝鮮が外地として日本帝国に属していたと考えるなら、朝鮮遺物が日本に流出するのはさておき、アメリカ、ドイツ、フランスなどの他国に搬出されることだけは禁止する手段を講ずるべきであったからである。このように日本帝国にとって朝鮮は、その外地であったものの、厳密な意味で文化財「掠奪」の対象としての植民地であったといわざるを得ない。これこそ朝鮮の文化財が日本帝国による朝鮮植民地統治の期間中に最も多く海外に搬出された歴史的背景になるわけである。」(342.)

植民地朝鮮における文化財保存に関わる法令が本国に先立って施行されたことをもって称揚するが如き言説を見かけるが、本質を見誤っていることは明白である。

「文化財返還をめぐって、日韓間でその理解を共有しあい、新たな見方を取り入れるためには単に政治的なアプローチだけでは説得力が乏しく、それを後押しできるほどの根拠資料と研究成果を提示しなければならない。窮極的には日韓の研究者たちがこの問題意識を深く提起した研究や議論を通して結論を導き出さなければならない。植民地期朝鮮で文化財が壊され海外へと搬出されたわけが、日本帝国と植民地において文化政策の相違にあったにも拘わらず、朝鮮古蹟調査事業に直接携わっていた日本人においては当時の朝鮮史観が拡大再生産していたと思われる。」(354-355.)

戦後(解放後)における代表的な日本人考古学者の朝鮮史観を改めて検討する必要がある。

「彼(藤田 亮策)は戦後日本に引き揚げて大学で考古学専攻の後学を養成し、韓国政府の文化財返還要求に極力反対していた。日本帝国による外地朝鮮での「日本考古学の実習」は、植民地期だけに限って行われたものでなく、この実習の「指導者」たちが日本に引き揚げた後、「朝鮮考古学」を「継承」していたということが、この問題の最も重要な部分であると同時に深刻性が見え隠れしているといえる。
藤田の「豪言」に対して韓国考古学界はどのような形であれ反応を示しただろうと思いがちであるが、1960年代韓国考古学界の劣悪な状況下でそれは期待できなかった。別の見方をすれば当時の韓国考古学界では、そのような認識が希薄であったと捉えることがより実像に近いかも知れない。さらに親日を目指していた政権下で、朝鮮植民地期に日本考古学者と共に発掘に参画した人々が、戦後に大学教員になり、植民地期の考古学的活動が如何なる「政治的」意味を持っていたのかに関心を払うよりは、1960年代における韓国の歴史学界が目指していた指向、すなわち韓国民族の「起源」を探ることにより大きな重きを置いていたからだと思われる。時遅しとは思うが、考古学の「政治学」に視点を据えて植民地期の考古学史を整理しておかなければならないわけが正にそこにある。」(357.)

解放後の植民地では「親日派」と目された人びとは当然のごとく糾弾されていった。
それでは解放後の植民地本国日本における「親日派」と目された人びとはどのような処遇を受けただろうか?

なお本論の後に掲載されている君塚 仁彦2016「植民地主義と博物館・博物館学」『博物館という装置』:367-386.で、本ブログ記事について言及・引用して頂いた。
有り難いことである。


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