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石棒研究にジェンダー視点を! [総論]

先週12月2日(金)に「緑川東問題」と題して、所内で発表した。来年開催予定の公開討論会の予行演習という位置づけである。

「大型石棒の儀礼行為としては、樹立使用が指摘できよう。石棒を樹立させていた痕跡と考えられる石棒自体の変色や、胴部上半のみを据えた堂ノ上遺跡例など論拠となる事例は少ないが、大型石棒を「樹立」させる行為は存在したものと推測したい。しかしいずれの事例も樹立したままの状態ではなく、本来樹立していたであろう遺構から抜き取られ、廃棄されたもの、あるいは折損後に素材として再利用されたものである点を踏まえる必要があろう。」(長田 友也2008「大型石棒にみる儀礼行為」『考古学ジャーナル』第578号:11.)

なぜ「大形石棒」についてのみ、「樹立」に拘っているのだろうか?
なぜ「推測したい」といったような自らの願望が述べられてしまうのだろうか?
もっと直截に言えば、実は「樹立させたい」ということなのではないのか?

「マーガレット・コンケイとジャネット・スペクターは1984年に発表した論文の中で、学問としての考古学における男性中心主義(男性的偏り)に言及して人々の注意を引いた。マーガレット・コンケイが指摘したように「女性の経験を正当なものとして再認識し、その経験を理論化し、それを政治活動のプログラムの組み立てに利用する」必要があった。しかしながら、彼女たちが提起した問題が広く検討されるようになったのは1990年代になってからであり、それまでの考古学界にはそれにふさわしい批判的雰囲気は存在しなかった。イギリスではポストプロセス考古学の理論的発達によってその気運が高まり、多くのフェミニズム研究がその枠組み内で行われるようになった。北アメリカではフェミニスト的批判運動、歴史考古学の成長、さらに先住民による自らの過去に対する関心の高揚などが結びついて、議論のための知的環境を築いた。
過去に関する解釈の大半に認められる、深く浸透した男性中心主義的思考を過少評価すべきではない。すなわち、英語の「道具製作者としての人間(Man the Toolmaker)」という明らかに男性を意識した用語は、たとえ表現上の「男性(mankind)」をすべて「人間(humankind)」に訂正したとしても、事実上、人々の間に広がっている先入観や偏見をさらに隠してしまうことになる。たとえば、旧石器時代の石器は女性ではなく主として男性によって作られたというのがそうであり、実際にはそれについての証拠などはほとんど何もないのである。フェミニスト考古学者たちが、今日、考古学に従事する専門研究者に見られる男女数の不均衡をも指摘するなら、それはもっともなことであり、今の社会的現実を見るかぎり、「政治的行動」という目標は正当と見なせるかもしれない。1990年代になると、男性中心主義に反対するフェミニスト的関心は、考古学について、その仮定上の客観性や政治的中立性に疑義を唱える多くの人々の間で共通認識のひとつとなっている。」(レンフルー&バーン(池田 裕ほか訳2007)『考古学』東洋書林:50-51.)

「ジェンダーの考古学:さまざまな学問領域から男性中心主義的傾向を取り除こうとする関心のこと。この動きにより、1980年代後半、考古学者たちはこの欠陥に対して自らの実践や解釈を調べ直した。民族誌学的データ(および常識的観察)は反対の結果を示していたにもかかわらず、明らかに大半の考古学者は、石器は主として男性が作り男性が使ったのだという従来からある見解を受け入れていた。例外はあるものの、旧石器時代・新石器時代の社会を描いた絵や図の大半は、男性のみを前景に置き、女性の行動や兆候を見過ごす傾向にあった。ジェンダー役割に関係するデータを引き出す方法についての問題が、今日ますます議論されるようになってきている。従来「男性は狩りに従事した」ということが強調されてきたが、多くの文化人類学者は現在それに対して異議を唱えている。異議を唱える立場の人々は、女性が集める植物性の食物・小動物等が食料として重要な役割を果たしていたということに注目している。この人々は、女性の協同的な行動が、養育的人間集団を選択的に育成したと考えている。」(ジャネット・ボールズほか編(水田 珠江ほか訳2000)『フェミニズム歴史事典』:17.)

「男性と女性に課せられた伝統的なジェンダー役割を容認していることに対する近年の異議申し立ては、今世紀における社会変化の最も根本的で力強い原動力であると言われてきた。フェミニズムは社会変革の促進という責務を負った「主義」なのである。フェミニズムの一つの形は、アカデミックな研究という活動である。そしてそれは、女性の生活が男性の生活とは質的に異なっているという事実の原因とその意味を認識することなのである。しかし地理学がフェミニズムの影響をほとんど受けていないことは注目に値する。人文地理学のあらゆる分野が、明示的にも暗示的にも、女性問題への欠如という病に冒されている。」(ジャニス・モンク&スーザン・ハンソン1982(影山穂波 訳2002)「人文地理学において人類の半分を排除しないために」『ジェンダーの地理学』古今書院:2.)

「過去数十年間の科学論研究は、文化の中にある恐怖や欲望が必然的に研究プロジェクトに影響を与えることを示してきた。例えばフェミニストは、文化に広まっている性差別的で男性中心的な恐怖や欲望が、科学が焦点を当てる対象や条件やプロセスをいかに形作ってきたかを指摘している。つまり、何を問題として取り上げるのか、好まれる仮説、こうした仮説で作り上げられている自然に関する概念やメタファーやモデル、研究プロジェクトの計画、データが収集され解釈される方法、実験をいつ終わらせるかという決定、研究プロジェクトが文化化された研究結果を生産しているということ、そしてそれがどのようにして生じるのか、ということはこれまで十分示してきたし、これ以上示す必要はもはやないだろう。」(サンドラ・ハーディング2006(森永 康子 訳2009)『科学と社会的不平等 -フェミニズム・ポストコロニアリズムからの科学批判-』北大路書房:142-143.)

「大形石棒は樹立させて用いたに違いない」という仮定を、「石棒神話」という。
必要なのは、「大形石棒は樹立させて用いたに違いない」という仮定を捨て去ることではなく、「大形石棒は樹立させて用いたに違いない」という仮定のみを固持している考えを捨て去ることである。


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コメント 2

硝子

御無沙汰しております。
「ジェンダー」については十代の頃より思考し続けているため、この件に関してトリックスター的にコメントさせて頂きたいと存じます(不謹慎ながらアタマのコリほぐし的に)。
東京都に登録している「調査担当者」ではない分際のどこの馬の骨とも分からない私でも、緑川東問題には関心があります。と申しますか、現代に生きている「ひと」であるならば、誰でも関心を持つのではないでしょうか。
縷々書き連ねることは可能ですが、論文のごとく長くなってしまうので断念するとして、現時点では、どの学問においても「男性中心主義」が揺らぐことはないと考えます。所詮この世は「It's a man's man's man's world」(by James Brown)なのですから。
音楽の世界でも、例えばプログレ系の女性ミュージシャンなど皆無、と言っても過言ではありません。ベルリン・フィル、ウィーン・フィルも女人禁制だった時代がありましたし。
日本の伝統文化ではその傾向が特に強い。「穢れ」とかabjectionとか言いだすとまた長くなるのでやめておくとして、それは男女差に限らず人種とか学閥とか家柄とか年齢とか、「ひと」というのは、どうしても「異質なもの」を排除したがる動物なのでしょう。そういうひとたちは、「文化的に」病んでいる、と言えるのではないでしょうか。あるいは、文化的に劣等な動物だ、と言い切ってしまってもよいですが。
何のために・誰のために調べて研究するのか、それを意識せず、お仲間うちで慣れ合って自ら学問の幅を狭めているのでは、その学問の発展はないと考えます。
「ジェンダー」とひと口に言っても、じゃあ女性的視点(féminité)があればいいのか、そもそも女性的視点、って何なんだ、ということになるのがオチです。どちらかと言えば、トランス・ジェンダー的視点が必要とされるのではないでしょうか。
日々発掘調査で現場に立っているわけでもないくせに、偉そうに何言ってんだ、と罵られるのは承知です。考古学という学問は、理系も文系も、すべての学問を総動員しなければならない、非常に難解かつ面白い学問であると考えます。それ故、学閥とか性差とか、狭い了見で閉じてほしくないのです。
長文失礼致しました、何卒ご容赦ください。
by 硝子 (2016-12-12 01:45) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

お久しぶりです。現在、次のブログ記事のために石棒研究史を読んでいますが、そこに脈々と流れる「立たせたい」とする欲望に驚いています。「緑川東以前」ならそうした思いもまだ理解できるのですが、2012年以後もそうした妄念が継続しているとしたら…
所詮私も「男性的な観点」から完全に離脱して物事を見ることも論じることも不可能ですが、「男性中心主義的な観点」を克服することはできると思います。「男性中心主義的な観点」がいかに考古学的事象の解釈を歪めているか、「緑川東問題」にはそうした問題性が集約的に表出しているようです。来年2月に開催予定の公開討論会に是非ご参加頂きご意見お伺いできることを希望しています。
「自己組織化とは、同じ組織に加入することではまったくない。そうではなく、どんな水準においても共通の知覚にもとづいて行動することである。状況に欠けているのは「人々の怒り」でも生活の貧窮でもないし、活動家の熱意でも批判精神の拡散でもない。ましてやアナキスト的みぶりの増殖でもない。われわれに欠けているもの、それは状況をめぐって共有された知覚である。」(不可視委員会2016『われわれの友へ』:13.)

by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2016-12-12 12:20) 

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