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過去への向き合い方 [学史]

「過去への批判は、過去の歴史と歴史遺産とどう向き合うかという、すぐれて現代の私たちの実践とかかわる問題である。」(春成 秀爾2016「日本考古学の父、濱田耕作」『通論考古学』岩波文庫(青N120-1):290.)

「南京陥落時の祝賀式で「南京陥落の快報は至れり。吾人皇国の臣民たる者欣喜の情景に譬ふるもの無し……」の訓示を垂れ、教練学生の閲兵などで濱田は総長として「厳然たる御姿」を見せた(寺田俊雄「濱田先生の追憶」『濱田先生追悼録』京都帝国大学文学部考古学教室、1939年)
しかし、本心はそうではなかったのである(「春成秀爾「二つの「古代の遺物」-濱田青陵」『考古学者はどう生きたか』学生社、2003年)」(同:293.)

さて、その「本心」とは?

「ねず・まさし(禰津正志)は濱田耕作の自由主義を非難している。禰津は、1949年刊の著書[ねず1949『原始社会ー考古学的研究ー』学芸全書10、三笠書房:3~4]のはじめに次のように書いている。
「本書をかくこと、つまり「唯物論全書」(学芸全書の当初の名称…H)と私との関係について明らかにしておきたいことが一つある。この全書が計画されたのは昭和10年であったろう。そしていわゆる第二次刊行予定のなかに、私の『考古学(『原始社会』の誤り。『考古学』は三沢章が執筆予定…H)がくまれていた。戸坂ジュン、渡部義通、平野義太郎の諸氏からのすすめをうけて、当時『歴史学研究』誌上に私が発表した「原始日本の経済と社会」で示した方法にしたがって書くことを考えて、承諾したのであった。
ところが新聞紙上にこの「全書」の刊行目録が発表されると、当時大学院で私の指導教授となっていた……濱田耕作博士は非常に怒って、博士の許可なく執筆を承諾したことを責めた。このため私としてはやむなく、執筆を中止しなくてはならなかった。当時の学界には言論の自由も学問の自由もなかった。濱田博士は「自由主義者」をもって自任していたが実際はこのいきさつでわかる通り言論の自由をみとめない官僚的封建的な人物であった。」
「言論の自由も学問の自由もなかった」のは、濱田という大実力者のいる「当時の学界」ではなく、ファシズム体制下にあった「当時の社会」である。1938年5月、「三笠全書」(「唯物論全書」を改題)に『民俗学』、1938年12月、『学芸』(『唯物論研究』を改題。いずれも弾圧から守るために改題)第74号(発行禁止になる)に「考古学における歴史の問題」を執筆した赤松啓介は、「考古学・民俗学の研究に初めて唯物史観を導入したというのが罪状の一つになって」1939年11月に逮捕され、4年間獄中にあった[赤松1967:34~37]。自分の指導している学生が、特別高等警察に検挙されそうな危険な行動をとろうとしているのを黙って見過ごす教授がどこにいるだろうか。ねずには、濱田の親心がわからなかったのである。ねずは、『世界文化』の同人としても活動していたが、彼の仲間たちとともに日華事変(盧溝橋事件)がおきた1937年の11月、「共産主義文化運動」をおこなっているとみなされ治安維持法違反で検挙されている[ねず1976:80]というのに、である。」(春成 秀爾2003「二つの「古代の遺物」 -濱田青陵」『考古学者はどう生きたか -考古学と社会-』学生社:141-142.)

他者が記した文章からその心情、特に故人の「本心」や「親心」といった内面を忖度するのには、十分なる慎重さが求められるだろう。
なぜなら往々にしてそこに推し量る側の恣意や意向が作用する可能性が高いからである。

ちなみに『唯物論全書』の「いわゆる第二次刊行予定」とは、1936年3月の『唯物論研究』第41号の裏表紙に掲載された広告などをさすのであろう。そこには「第二次 全十八巻 内容」として確かに「考古學 禰津正志」と記されており、決して「誤り」ではない。後段で述べられている各種事例との時間的前後関係に注意。

「日本人の戦争責任の問題は、歴史家もまた回避してはならない。彼らが現代人であり、また何らかの形でこの戦争に参加してきたかぎり、彼らにも多かれ少なかれ、戦争について責任がある。さらに元東大教授平泉澄や元文部省維新史料編纂官の藤井甚太郎のように荒木大将と組んで戦争熱をあおった積極的な戦争犯罪人もいる、このほかにも存在した。私はひろく日本人一般が戦争について責任があると思っている。天皇、軍部、新官僚、資本家、大地主、政党などの支配的な人々だけが戦争犯罪人であり、責任者であって、国民は責任がなく、また無罪であるというふうに考えたら、大まちがいである。それと同時に、国民は戦争の被害者でもあった。しかし資本家のなかにも、希望しない政府の統制経済のために被害者がでた。進歩的な政党や学者・歴史家の諸君が、戦争犯罪なり、戦争責任を、支配階級、とくに主として軍部に押しつけて、「われわれは知らん、被害者だ、国民も被害者だ、だまされたのだ」といって素知らぬ態度をとっていることは、私には同感できない。(中略)
今度の大戦争が満州事変以来の戦闘行為を含むとすれば、一部の批判的な人々を除いては、国民は軍部の満州侵略、北支侵略を謳歌し、これに便乗して金もうけや出世も考えた。南京陥落の時、私は京都の五条警察署の取調室で、水越貞雄警部補とむかいあっていた。彼が「あの提灯行列をみろ! あれが日本人の感情なのだ。お前らが、いくら頑張って戦争に反対したところで、とてもあの国民の感情をひやすことはできない。」と勝ち誇ったようにいった時、私は失望してしまった。戦争に反対し平和を求める声がいかに正しくとも、国民はうけいれないのである。彼らは戦争に酔い、勝利を謳歌した。しかし「やがては敗けるぞ」といって聞かせたところで(とはいえ、いい聞かせる手段の言論は一切奪われている。現に私たちは世界の文化人の平和運動について、ささやかな報告をのせる雑誌『世界文化』を発禁もうけずに、ほそぼそと2年ばかり刊行してきただけで、共産主義運動といういいがかりで検挙されている)、国民は全然信じる気持をもっていない。その国民は戦争に協力し、協力しない者を憎み、あるいは警察へ密告して葬った。」(ねず まさし1974『『現代史』への疑問』三一書房:147-149.)

今から80年前の1937年12月、ある人は訓示を垂れ、ある人は警察の取調室にいた。

言論の自由も学問の自由もなかった当時の社会情勢において「しょうがなかった」、「どうしようもなかった」という方もおられよう。私も自らが、そうした状況に置かれた場合に、何がどこまでできるか甚だ自信がない。しかし、そうした状況下において、なおかつ明確な言葉を残した人びとがいた。そうした人たちの存在は、後に続く者の希望の灯火である。

「お望みとあれば、どうぞわたしを裏切者とよんでくださっても結構です。わたしはこれっぽちもおそれはしません。むしろわたしは他民族の国土を侵略するばかりか、なんの罪もない無力な難民のうえにこの世の地獄を現出させて平然としている人びととおなじ民族のひとりであることを恥とします。ほんとうの愛国主義は、人類の進歩とけっして対立するものではありません。でなければ、それは愛国主義ではなく、排外主義なのです。
戦争以来、日本にはなんとたくさんの排外主義者が生れたことでしょう。むかしは意識的で進歩的な人間だとか、あるいはマルクス主義者だとさえ自称していたインテリゲンチヤが、反動的な軍国主義者や政治家たちの驥尾にふして、恥知らずにも「皇軍」の「正義」について太鼓をうちならしているのをきくと、わたしは怒りがこみあげ、嘔気をもよおしてくるのをどうすることもできません。」(長谷川 テル(高杉 一郎訳)1980『嵐の中のささやき』新評論:154-155.)

南京事件に至る第二次上海事変のさなか(1937年9月)現地において「中国の勝利は全アジアの明日への鍵である」と題してエスペラント語で記された文章である。

「親心」には単に教え子の検挙を危惧し保身を気遣うだけではなく、侵略戦争に反対し学問を通じて平和を希求する若者を励まし支援するという「親心」も有り得たのではないか。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「三笠全書『考古学』執筆は、初め二人の分担であったが、途中から情勢悪化の急速な進展をみて、彼を降段させ、ぼくの単独執筆に切変えたのであった。その予想の通り、ぼくもまた完成せずに検挙されたのである。」(赤松 啓介1971「和島誠一氏との四十年」『考古学研究』第18巻 第3号:15.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2017-03-19 08:13) 

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