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緑川東問題の深層心理学(サイコアナリシス) [総論]

「そもそも緑川東問題が生じるに至った直接の契機は、「なぜ廃棄論者たちはあれほど「敷石の除去」にこだわっているのか」という素朴な疑問であった。」(五十嵐2017a「緑川東・廃棄時設置という隘路」『東京の遺跡』第107号:4.)

*なぜ、敷石除去にこだわるのか?
  なぜならば、一般住居の廃棄時設置だから。
*なぜ、一般住居の廃棄時設置なのか?
  なぜならば、石棒並置は石棒の使用形態ではないから。
*なぜ、石棒並置は石棒の使用形態ではないのか?
  なぜならば、石棒の使用形態は樹立だから。
*なぜ、石棒の使用形態は樹立なのか?
  なぜならば、石棒は男性器(男根)を模した<もの>だから。
*なぜ、男根を模した<もの>の使用形態は樹立なのか?
  なぜならば、男根の使用形態は樹立だから。

「石棒神話」すなわち樹立願望(マスキュリニズム)を明らかにしていかなければならない。
リビドーといったことも考えなければならないだろう。

「石棒は、見たままそのものずばり、勃起した男性器をかたどった石製品である。大きいものは2メートルを超えるものから、小さいものは大きめのマッチ棒くらいのものまである。いずれも包皮は反転しているようで、あたかも男性の性的な力強さを象徴しているようである。特に、1メートルを超えるような大きさの石棒が大地にまっすぐに立てられている様は壮観だ。中でも長野県南佐久郡佐久穂町にある北沢の大石棒は全長が2メートル23センチもあり、現在は水田の脇に立てられている。その様は見事と言う他ない。(中略)
興味深いのは、このような精巧な石棒の、亀頭に当たる部分にしばしば、摩滅痕や敲打痕が観察できることである。
以前、私は石棒に見ることができるこのような摩滅痕や敲打痕を、手でこすったり、先端を何かに突くように当てたりした証拠であり、儀礼的・疑似的な性行為を模したものであるとの見解を提出したことがある(山田1994a)。当時は、このような見解は「まゆつばもの」として、非常に好奇な目でみられ、同じ研究室の諸氏からは「まぁ、がんばってください」などと、冷やかし半分の励ましの声をいただいたものだ。しかしながら、その後批判されたことも多々あったが、次第に摩滅痕や叩(ママ)打痕を持つ石棒の類例が増加してきており、最近では石棒を観察する際に注意すべき検討項目として取り上げられることも多くなってきた。縄文時代の人々が、石棒をただ手に持っていただけではなく、それを何かに擦りつけたり、突いたりし、それを疑似的な性行為として演出していたことは間違いないだろう。」(山田 康弘2015『つくられた縄文時代 -日本文化の原像を探る-』新潮選書:187‐188.)

ある考古資料に関する使用痕跡から痕跡を生じるに至る過去の動態が導かれているわけだが、そこにある種のバイアスが作用していないだろうか? すなわち、ここでは他の石器類、例えばナイフ形石器などの使用痕跡から使用行為を導き出すプロセス(例えば御堂島 正2005『石器使用痕の研究』など)とは別種の思考(マスキュリニズム)が介在していることは間違いないだろう。それは、対象資料に対して「壮観」とか「見事」といった筆者の思いが託された用語にも表れている。


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