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長田2014「国立市緑川東遺跡を石棒から読む」を読む [論文時評]

長田 友也 2014 「国立市緑川東遺跡を石棒から読む」『緑川東遺跡 -第27地点-』:157-165.

はじめに今年の2月19日に行われた公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」自由討論の記録から。
「(山本 典幸)…今日の討論の最初に確認したい点があります。報告書の中で、長田さんが緑川東の事例を住居廃絶行為との関連から石棒の廃棄儀礼として解釈することに妥当性を見出しました(報告書p.159, 161, 164)。その一方で、彼は遺構内に石棒を並べて置く、ないし埋めておく(埋置)、そうした行為が石棒を日常的に安置する場であるのか、石棒を再利用するための一時保管場であるのか、遺構、石棒ともに廃棄されたものなのかなど、いずれも解釈が可能だと指摘しています。そして現状では限定的な意味づけは困難だと指摘されているわけです。」(『東京考古』第35号:4-5.)

自由討論における前半での発言である。発言者は自らの発言の前提として考古誌に掲載された当該論文について以上のように要約した訳だが、これではその論文がSV1を「廃棄儀礼として解釈」したのか、それとも「いずれも解釈が可能」としたのか、よく分からない。果たしてこのような要約が適切なのか、当該論文を改めて読んでみよう。

論文の構成は、以下の通りである。
    はじめに(157.)
(1)石棒の観察(157-159.)
(2)石棒の出土状況(159.)
(3)類例の検討(160-161.)
(4)石棒の時間(161-163.)
(5)石棒から読む(163-164.)
    謝辞、引用・参考文献(164-165.)

討論会において「その一方で…」と言及された文章は「(2)石棒の出土状況」という節の終わり近く(159.)に記されているが、「…限定的な意味づけは困難な状況にある」という文章に続いて以下のような文章が記されている。
「本事例の状況が”廃棄前の機能時の状況”を示すのか”廃棄・廃絶後の状況”を示すのか、そのいずれかに絞って出土状況を解釈しても良さそうである。」(159.)

すなわち具体的に示した解釈案の1.「石棒の日常的な安置の場」、2.「再利用するための一時保管場」、3.「廃棄されたもの」という3つの案のうち、1と2を「廃棄前の機能時の状況」、3を「廃棄・廃絶後の状況」と言い換えて、そのどちらかであろうとする。

次節「(3)類例の検討」では、光明院南、松風台、稲ヶ原A、武蔵台など他の類例を検討しつつ、以下の結論に至る。
「…4本の完形石棒出土の特異性をあらためて確認できたものの、先にあげたような状況の解釈のいずれが妥当であるかを裏付けるものではない。しかし、竪穴住居跡内出土例の多くが廃絶の状況を示す点からすれば、本事例の状況も廃絶あるいは廃棄に向けた視点での解釈が妥当な状況にあるといえよう。」(161.)

様々な「類例の検討」の結果、「本事例」すなわちSV1出土の4本の石棒は、「そのいずれかに絞って」と区分されたうちの後者、すなわち「廃棄・廃絶後の状況」を示すとの解釈が「妥当な状況にある」というわけである。
しかし「いずれが妥当であるかを裏付けるものではない」としたのに「廃絶あるいは廃棄に向けた視点での解釈が妥当な状況にある」とする論理的な帰結、「しかし」という接続詞による前後の文章のつながり、裏付けがないのになぜ妥当と判断できるのかについて何度読んでも理解できない。

引き続き笠形石棒の時期・変遷の検討を経て「(5)石棒から読む」と題した結論的な箇所では、次のように述べている。
「これまで見てきたように、緑川東遺跡・敷石遺構SV1から4本の笠形石棒が出土した事例は、他に類をみない希少な事例であるものの、具体的な出土状況の解釈が難しい点を確認してきた。同時期の類似出土事例では、火災住居に代表される廃絶・廃棄儀礼との関連が指摘されるが、即座に本事例に当てはめることは難しい。」(163.)

「他に類をみない稀少な事例であるものの」とは、言葉の使い方がおかしくないか? 「他に類をみない稀少な事例のため」ではないだろうか?
それはともかく2ページ前では「他の類例を検討」した結果「廃絶あるいは廃棄に向けた視点での解釈が妥当な状況」との結論に至ったのに、ここでは「廃絶・廃棄儀礼との関連が指摘されるが、即座に本事例に当てはめることは難しい」とはいったいどういうことなのだろうか? 「即座に」は当てはまらないが、「ゆっくりと」当てはめることは可能だということなのか?

さらに次のように述べられる。
「…本事例の位置づけとしては、4本の石棒を使用した状況ではなく、敷石遺構SV1に(1)埋納した可能性と、(2)廃棄・廃絶した可能性が指摘できよう。」(164.)

やはり「廃絶あるいは廃棄に向けた視点」ではなく、159頁にもどって「埋納した可能性」すなわち「廃棄前の機能時の状況」か、「廃棄・廃絶した可能性」すなわち「廃棄・廃絶後の状況」のどちらか「限定的な意味づけは困難である」というのが結論のようである。

ところが最後には、以下のように述べられる。
「4本の完形石棒の出土は、安易に石棒儀礼の象徴的事例として注目する指摘もみられることであろう。しかし、発掘調査における詳細な出土状況・堆積状況の検討と、整理作業での土器の接合関係に代表される明快な時期検討、さらには石棒自体の型式学的検討や出土事例の整理などから、本事例の評価を行った。評価に至る過程においては、状況証拠的な部分が多い点は否めないものの、結論として本事例が直接的な石棒儀礼行為を示すものではなく、笠形石棒終焉へ向けた終焉行為・廃絶儀礼として本事例を評価した。」(164.)

え?! 
話しの筋が二転三転して文脈を追うことすら困難であるが、「廃棄前の機能時の状況」を示すのかあるいは「廃棄・廃絶後の状況」を示すのかという自らが示した2案のうちの前者は、実は「安易な指摘」すなわち良く考えることなく示した指摘であることが明かされる。そして本事例は「他に類をみない希少な事例であるものの」「竪穴住居跡内出土例の多くが廃絶の状況を示す点から」「廃絶儀礼として本事例を評価した」というのである。これでは、丁寧に読んできた読者は、まるでキツネにつままれたような心境となるだろう。

冒頭の討論会における本論文理解に戻れば、長田2014は「廃絶儀礼という解釈」と「日常的安置・一時保管場・廃棄」の3案を対置させて「いずれの解釈も可能」などとしているのではなく、まず3案を提示した後に「他に例をみない希少な事例」を他の出土事例と比較検討して「廃絶儀礼」という結論に至ったことが確認されよう。

こうした読解作業から得られる教訓は、何か?

論文の構成や論点の展開についてはさておき、対象とする遺構について「安置する場」とか「保管場」とか「廃絶儀礼」といった具体的な性格規定にいきなり飛びつくのではなく、求められているのはSV1がもともと大形石棒設置のためのオーダーメイド的な特殊遺構なのか、それとも一般的な敷石住居の再利用なのかという現在も意見が分かれている基本的な見解の相違を明確に認識したうえで、どちらがより妥当性があるのかについて自らの見解を明らかにすることだろう。
そうした点で、緑川東のSV1について根本的な見解の相違が存在していること自体に一切触れずに自らの「保管庫説」のみを述べる山本2017の姿勢について、大いに疑問とせざるを得ない訳である。


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