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佐藤1989「植民地の「開発」は侵略の手段である」 [論文時評]

佐藤 正人1989「植民地の「開発」は侵略の手段である -”アジア侵略の理想とエネルギイの復権”を阻止するために-」『アジア問題研究所報』第4号:3-24.

「「いわゆる「王道楽土」は、欺瞞的なものであったと烙印をおされているが、そう簡単に見棄てられぬものがあったのではないか。結果として「満州国」は、中国側から言う「偽国」におわったが、その過程には、多くの理想とエネルギイが投入されたのだから、そのすべてを無益にしたくはない。当然、ある部分については復権を考えてみる必要がある」
「日本国民のかなりの部分が、植民地生活の体験をもっている。植民地でうまれた世代も成長している。彼らのそれ自体として自然な郷土喪失感(?)が、放置され、屈辱に押し込められている現状は、正常ではない」(「満州国研究の意義」、『週刊読書人』1963年10月21日号)。
中国東北部を侵略した日本人の「理想とエネルギイ」なるものの一部分を「復権」したいという恥知らずな妄言を、日本経済の高度成長が開始された時期にのべていたのは、当時「満州国研究会」という小グループ活動をやっていた竹内好という日本ナショナリストの一人である。」(3.)

良心的と信じ込んでいた知識人に対する幻想が吹き飛んだ瞬間である。
本論の論旨は、全て表題の一文に凝縮されている。
佐藤氏には、10年前のセミナーで発表していただいた。

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岡本2017「縄文の原則」 [論文時評]

岡本 孝之 2017 「縄文の原則」『郵政考古紀要』第67号(通巻76冊)、大阪・郵政考古学会:1-15.

「縄文を誤解する風潮はずっと続いている。九州有文土器文化や西日本無文土器文化を縄文視するなど、なんでもかんでも縄文とするのは、日本国の領土と一致させる以外に理由はない。地域性をキーワードとして違いを理解することは、前提としての日本国の領域があってその辻褄を合わせているだけのことである。弥生の東西の差異を地域性とする指摘も同じで、できるだけ広い領域を取りたいだけのことであり、真摯に縄文・弥生を考察したものではない。強調される多様性、地域性という指摘はことばの罠である。」(10.)

ということで、「縄文の原則」(2.)として以下の9ヶ条が示される。
1.縄文の理想 原始(縄文)は、民主、平等、共産の社会であること
2.古代の否定 原始(縄文)は、古代(弥生)に否定される
3.弥生への疑問 古代(弥生)以降の支配隷属関係(階級制)を疑うこと、文明を疑うことである
4.戦争の廃絶 戦争は文明であり、その廃絶は原始(縄文)の立場からしか達成できない
5.縄文の発見 近代考古学は、原始(縄文)を発見した
6.考古学の意義 考古学は原始、古代、近代の全歴史を総括できる唯一の科学である
7.近代は未完成 近代は、未完成であり、原始(縄文)像もまた、未完成である
8.近代の否定 未完成の近代は、原始(縄文)を受け入れず、誤解し、無視するだけでなく、考古学においては弥生に発展するとして縄文の理想を否定する
9.縄文の復権 原始(縄文)の世界観にたつこと

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ましこ2017『コロニアルな列島ニッポン』 [全方位書評]

ましこ ひでのり 2017 『コロニアルな列島ニッポン -オキナワ/オホーツク/オガサワラがてらしだす植民地主義-』三元社

いろいろな意味で、極めて重要な書籍である。そしてその緊急性もまた高いというべきであろう。

「本書の含意は単純明快です。「日本は戦後一貫して植民地であり、かつ植民地を全部放棄したわけではないという意味で、二重に植民地性をおびた空間だ」と。さらに、その基盤として、「日本」という実体(=時間上/空間上の連続体)が共同幻想にすぎず、たとえばヤマト王権の成立起源を確定するといった作業自体無意味という世界史的普遍性があると。当然、その内実(生活者/政治経済文化)はもとより、境界線自体が変動しつづけてきたわけで、いかなる実体視も科学をよそおっただけの本質主義=ガラパゴス的なイデオロギーにおちいるわけです。」(156-157.)

私から見れば、至極当然な真っ当な意見なのだが。
二重の意味でコロニアルな時空間において「ポストコロニアル」を唱える困難さを思い知る。

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タグ:植民地
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