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酒寄1999「「唐碑亭」すなわち「鴻臚井の碑」をめぐって」 [論文時評]

酒寄 雅志 1999 「「唐碑亭」すなわち「鴻臚井の碑」をめぐって」『朝鮮文化研究』第6号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部朝鮮文化研究室紀要:33-60. 2001『渤海と古代の日本』校倉書房:386-434.所収

「鴻臚井(こうろせい)の碑」とは、唐の外交官職である「鴻臚卿」が渤海国王を冊封した帰途、旅順に立ち寄り井戸を掘り記念として傍らに設けた巨石の碑であり、「唐碑亭」とはその石碑を覆う覆屋を言う。
そもそも中国・遼寧省にあった石碑が、なぜ日本の千代田区に存在しているのか。

「文献史料の乏しい渤海史研究にあって、「鴻臚井の碑」は、戦後に発見された貞惠公主墓誌や貞孝公主墓誌などとともに貴重な金石文である。しかしながらこの碑石は、現在、日本の皇居内深くに置かれており、それを目の当たりにすることはかなわない。そのため碑石自体がどのようなものか、碑文は一体石のどの部分に書かれているのかなどわからないことばかりであった。」(33.)
「この碑石はつとに「鴻臚井の碑」と呼ばれて斯界では知られているが、今日、皇居内の御府の一つである「建安府」の前庭にあるという。」(34.)

「御府(ぎょふ)」も「建安府」も、知らないことばかりである。
ウィキによれば、「戦利品は関係各国に返還された」とのことであるが、いつ、どれほどのものが、どこに返還されたのか、甚だ信憑性に欠ける記述である。根拠となる情報源(例えば新聞記事など)も、示されていない。
少なくとも「鴻臚井の碑」は未だに皇居内にあり、現地からの返還要求にも応じていない。

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ナンタ2016「植民地考古学・歴史学・博物館」 [論文時評]

アルノ・ナンタ(Arnaud Nanta)2016「植民地考古学・歴史学・博物館 -朝鮮半島と古代史研究-」『帝国を調べる -植民地フィールドワークの科学史-』坂野 徹編、勁草書房:47-84.

「日本人研究者が朝鮮半島で実施した学問研究のなかで、本章で注目するのは考古学である。19世紀に誕生した近代考古学は、同時期に形成された国民国家におけるナショナル・アイデンティティの創造過程で重要な役割を果たすとともに、世界各地の植民地(特に地中海と東アジアの各植民地)において、征服地域を把握するために不可欠な学問となった。」(48.)

編者の坂野 徹氏と慎 蒼健氏が中心となって2005年に組織された「植民地と学知研究会」による2010年の論文集『帝国の視覚/死角 -<昭和期>日本の知とメディア-』(青弓社)に次ぐ成果の論考である。2012年からは、「帝国日本のアジア地域における人類学・衛生学に関する歴史研究」(日本大学経済学部中国・アジア研究センター)という研究プロジェクトが直接の母体となっているようだ。
アルノ・ナンタ氏は、フランス国立科学研究センター(CNRS)に所属する研究者である。

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山本2016「縄文時代中期終末から後期初頭の柄鏡形敷石住居址のライフサイクル」 [論文時評]

山本 典幸 2016 「縄文時代中期終末から後期初頭の柄鏡形敷石住居址のライフサイクル」『古代』第138号、早稲田大学考古学会:207-228.

ちょうどこうした問題を考えていたので、色々と興味深いことの多かった論考である。

「本稿は、縄文時代中期終末から後期初頭の柄鏡形敷石住居址を対象に、敷石の接合例や遺存状態、遺物の出土状態などから、敷石の一部が時間を逆行して再利用(lateral cycling)ないしリサイクル(recycling)された事例と、敷石に用いた礫石を分割した後に異なる柄鏡形敷石住居址の床面に分有した事例を提示する。」(207.)

冒頭の一文であるが、シファーなどの原文に「時間を逆行して」といった類の文章があっただろうか?
(こうした些細な文言にこだわってしまうというのが、最近の悪い癖である。)
もちろんタイムマシンを用いない限り「時間は逆行」できないし、あくまでも「製作・使用といった物質資料の「流れ」(フロー)を繰り返す」といった意味だとは思うのだが、そういう意味で「時間を逆行しない」すなわち「時間を順行する」ような再利用などは有り得ない訳で、あえてこうしたフレーズを挿入する意図がいまひとつ読みきれないのである。

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溝口2015「公共考古学の可能性」 [論文時評]

溝口 孝司 2015 「公共考古学の可能性」『過去を伝える、今を遺す -歴史資料、文化遺産、情報資源は誰のものか-』史学会125周年リレーシンポジウム2014 4、九州史学会・公益財団法人史学会編:170-194.

いわゆるパブリック考古学論である。
「現代的考古学実践の四類型」(図2:179.)という四象限図を始め、大枠は昨年の日本考古学協会の研究発表時に聞いた覚えがある。改めて、詳細に述べられたということである。
同書にも収められているエルサルバドルの事例(村野 正景2015「文化遺産の継承そして創造へ―参加型考古学を試みる」:84-114.)などは、差し詰め「第三象限」に属するものと思われるが、その中でも様々であることが良く分かる。
そして4つの「実践課題」が示される。

現代考古学実践課題一:「学問的成果として解明された人類史を市民に対していかに語るか」
現代考古学実践課題二:「植民地主義の様々な(正負の)遺産と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」
現代考古学実践課題三:「様々な位相・スケールで進行する経済格差の拡大が、ポストコロニアル状況の深化と相関しつつ導く様々な内容の社会的緊張関係・差別の問題と、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」
現代考古学実践課題四:「流動化・断片化する生活世界のなかで問題化する「アイデンティティ問題」、存在論的セキュリティの動揺に対し、考古学的実践を通じてどのように向き合うか」

やや固い言葉が連なるが、課題二と課題三については以下のように語られる。

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佐藤2016「死者は事物に宿れり」 [論文時評]

佐藤 啓介2016「死者は事物に宿れり -考古学的想像力と現代思想の物質的転回-」『現代思想』第44巻 第1号:232-242.

1. 「考古学的想像力と現代思想」前史
2. アクターなきネットワーク -痕跡と物質と動作の連鎖-
3. ネットワークに宿る死者たち -死者の記憶としての物質世界-

「ポスト現代思想」と題された特集号の「ニュー・リアリズム」「ニュー・マテリアリズム」「非人間的なもの」「フェミニズム」「エステティクス」と題された主題群に続く「考古学」という見出しに収められた論考である。
青土社の『現代思想』に考古学を主題とする論文が登場するのは、本論中でも言及があるように1990年の特集「考古学の新しい流れ」以来だろうか。

「さて、めまぐるしくうつりゆく、現代思想の(こう呼んでよければ)「物質的」転回を考えたとき、同じく物質の学を自認しているはずなのに、その転向にどこか「乗り遅れ」ている学問分野があるように思われる(そこに乗らなければいけないわけでもないのだが)。それが「考古学」である。…
 もともと考古学は「過去人類の物質的遺物を研究する学」(濱田1922,11頁)として誕生したはずだが、それらの議論の多くは、物質的遺物に関する主題以外のところでの発展によるものであり、どこか、自身がもっとも本領を発揮してよいはずの物質概念には触れないままにしているかのような印象を受ける。…
だが、筆者のみるかぎり、これまで積み上げられつづけてきた考古学的な議論のなかには、現代思想の物質的な転回にも匹敵するような、物質、とりわけ「物質的痕跡」に関する数々の興味深い視点が埋もれている。…
本論では、個々の考古学的資料の解釈をとりあげるのではなく、考古学が物質を考える際の特有の捉え方を、いささか強調して取りだしたうえで、それを「考古学的想像力」として規定し、その想像力から眺めた世界の姿がいかなるものかを考えていきたいと思う。」(232-233.)

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鈴木2015「岩宿時代集落研究と発掘調査報告書のあり方」 [論文時評]

鈴木 忠司 2015 「岩宿時代集落研究と発掘調査報告書のあり方」『古代文化』第67巻 第2号:98-105.

「発掘報告書のあるべき姿」を論じた、すなわち考古誌批評という稀なるジャンルの貴重な問題提起である。
ただ、その前提ともいうべき「岩宿時代の集落研究」を述べた幾つかの箇所において、若干の異論もあるので私見を述べておきたい。

「はじめに」と題した箇所において、岩宿時代の集落研究が十分になされていない要因として「集落遺跡全体のごく一部のみが調査される」ことが挙げられている。そしてその例外的な事例として埼玉県砂川遺跡が想起されている。
「遺跡規模と集落域の発掘の完結性」(98.)
本当にそうだろうか?

砂川遺跡は1966年の第1次調査で発掘されたA地点および1973年の第2次調査で発掘されたF地点が議論の対象となっているが、A地点の東・F地点の北およびA地点の南・F地点の西には未だに未調査のエリアが広がっているようである(例えば野口 淳2009『武蔵野に残る旧石器人の足跡 砂川遺跡』図15 砂川遺跡の広がりと地点、図27 砂川遺跡A・F地点の集中部といった挿図を参照のこと)。
岩宿時代の集落研究の第一の制約として「集落全体を含み込む発掘域の完結性」が述べられているが、砂川遺跡を事例として「集落域の発掘の完結性」を語るのは、如何なものだろうか。

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赤松1967「はてしなき泥濘の道」 [論文時評]

赤松 啓介 1967 「はてしなき泥濘の道 -建国祭の頃の思い出-」『考古学研究』第13巻 第4号:18-32. 「はてしなき泥濘の道 2」同 第14巻 第1号:34-48. (2000『赤松啓介民俗学選集 第5巻 民俗学批評/同時代論』:248-304.所収)

「ごく一部には、皇国史観に積極的に妥協し追随し自らの科学性を犠牲にした研究者も生じたし、それと反対に皇国史観に公然と反対し考古学の科学性を主張して弾圧された研究者も現われたが、研究者の大勢は、現実から眼をそらし、思想性をぬきとることによって、個別的な考証、個々の事実に対する実証的形態的研究に沈潜する方向を歩んだ。」(近藤 義郎1964「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』:312.)

戦時期の「日本考古学者」の生態に関する有名な「三類型」を提示する一文である。多数派の第三グループはもとより、第一グループについてもここ10年ほどで少しずつその実態が明らかにされてきた。しかし更に少数派の第ニグループについては、どうだろうか。かつては必読とされた本論についても、最近の若い研究者がどれほど知っているか心許なくなってきたので、改めて紹介する次第である。
未完であることを遺憾とする。

筆者の「考古学に夢を」という題名のエッセイについては、かつて紹介したことがある。
筆者の在りし日の画像については、こちらに。

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近藤1964「戦後日本考古学の反省と課題」 [論文時評]

近藤 義郎 1964 「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』考古学研究会十周年記念論文集:311-338.

前々回の記事でその一部を引用して指摘したように、半世紀を経て少しも劣化しない、いやむしろその先見性により重要さが増しつつあるという稀有な今や古典とも言うべき論考である。
本論は、総括的な学史を述べた前半(一 戦前戦中の考古学、二 敗戦と考古学、三 反動的イデオロギーの復活)と個別的な成果と課題について論じた後半(四 登呂遺跡の発掘、五 先土器時代の発見と研究の進展、六 月の輪古墳の発掘、七 遺跡保護の運動)という大きく分けて二部構成になっているが、今回注目したのは「日本考古学」という用語の使い方(使われ方)についてである。
考古学に「日本」という接頭辞が付された用語、あるいはそれに更に「戦後」という時間限定用語が付された用語は、いったいどのような文脈で用いられているのだろうか。
そこから浮かび上がるある考え方について述べてみたい。

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梅原1947「現下の日本考古學」 [論文時評]

梅原 末治1947「現下の日本考古學 -その展望と将来の課題-」『人文』第1巻 第2号、人文科学委員会:45-57.

「考古學が古物を解釋する學問だとする為政者の誤った考えからして、實は過去十数年の激しかつた政治の學問に對する強壓下にあつて、この學ではさして研究上の自由を奪われることなく、関係者が基礎的な調査なり研究を続けることが出来たばかりでなく、一面強行された政治勢力の大陸なり南方への進出に便乗して、その活動の範囲をば是等の地方に及ぼした結果、今日では同地域ののこされた文化事業のやゝ見るべき業績の一とも言うべき趣をすら呈しているのである。彼の朝鮮並に南満洲に於ける我が考古學上の調査研究の廣い東亞考古學の成立への寄与の如きはその好例とせられる。か様な事情の下にあつた事が、いまや世情の一大變換期に際して、新たな一般の要求に應じて、歪んでいない幾何かの関係の知識を提供し得た所以なのであつた。たゞ考古學の取扱う對象にもとずくそれ自體の限界なり、またこの學問發達の迹を辿つて現状に及ぶの際、そこに今日あるを得しめた先學の數々の業績が思われると共に、いろいろと省みるべき點のあることが考えられて、それが學としての正しい発達の上に聯關する所の大なるものあることに思い及ぶのである。」(45-46. 下線は引用者、以下同)

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宮田2015「朝鮮植民地支配を再び問う」 [論文時評]

宮田 節子 2015 「朝鮮植民地支配を再び問う」『世界』第871号:124-131.

「では、朝鮮人に皇民化を強要した日本人の側はどうだったのかといえば、直接に朝鮮を支配した朝鮮総督ですら、日本の支配を侵略や強制とは認めていない。それどころか、植民地支配に対して、何らの痛痒を感じていなかった。たとえば、第四、六代朝鮮総督を務めた宇垣一成は、日本の敗戦と朝鮮の解放の後にも、自身の日記で次のように述べている。
「満州や朝鮮の暗黒荒蕪の此未開の荒野原に新文明の恵沢を輸入し土着民と日本移民とが共存共栄の恵沢に浴する様に施設したる日本の行為を一概に侵略行為と見做す如きは、正義の鏡に照して到底哀心より承服する訳には行かぬ」(『宇垣日記』三、1717頁、昭和22年10月9日、みすず書房版、以下同)
また宇垣は、朝鮮総督時代の自分を「平和的民主的な牧民官」であったと回想し(宇垣一成述、鎌田沢一郎著『松籟清談』、文藝春秋社、1951年、112頁)、総督としての自分に高い評価を与えている。宇垣をはじめ、日本の支配者・指導者は、徹頭徹尾、日本帝国の立場に立って朝鮮を支配したということを繰り返し明言しており、これを否定することはできないと思う。
問題は、日本の支配者たちが、日本帝国の立場と朝鮮の民衆の立場とは、完全に一致していたと考えていたことである。支配者たちは、日本のために尽くせば尽くすほど、それは同時に朝鮮の民衆のために尽くすことだと考えていたのである。自己欺瞞ではなく本気でこのように思っていたところに、朝鮮植民地支配の根の深さがあるように思えてならない。
宇垣はまた、なぜ朝鮮人は独立運動などするのか、なぜ、日本人にしてもらったことを「光栄名誉」と思わないのか、「不可解の極」みであると述べている(『宇垣日記』一、596頁、昭和2年8月20日)。恐るべき独善というほかないが、こうした思考回路からは、朝鮮植民地支配に対する反省など、生まれてくるはずもなかったのである。」(130-131.)

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