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過去への向き合い方 [学史]

「過去への批判は、過去の歴史と歴史遺産とどう向き合うかという、すぐれて現代の私たちの実践とかかわる問題である。」(春成 秀爾2016「日本考古学の父、濱田耕作」『通論考古学』岩波文庫(青N120-1):290.)

「南京陥落時の祝賀式で「南京陥落の快報は至れり。吾人皇国の臣民たる者欣喜の情景に譬ふるもの無し……」の訓示を垂れ、教練学生の閲兵などで濱田は総長として「厳然たる御姿」を見せた(寺田俊雄「濱田先生の追憶」『濱田先生追悼録』京都帝国大学文学部考古学教室、1939年)
しかし、本心はそうではなかったのである(「春成秀爾「二つの「古代の遺物」-濱田青陵」『考古学者はどう生きたか』学生社、2003年)」(同:293.)

さて、その「本心」とは?

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日本考古学協会創立時委員メンバー [学史]

「1948年4月2日東京国立博物館大講堂で、日本考古学協会設立総会が開催され、ここに正式に協会の設立がなされた。
藤田亮策先生が、委員長になり、次の10人の委員が選ばれた。
梅原末治・後藤守一・駒井和愛・八幡一郎・斎藤忠・江上波夫・水野清一・石田茂作・山内清男・杉原荘介(『日本考古学年報』1の掲載順による)」
(斎藤 忠1998「初代委員長藤田亮策先生を憶う」『日本考古学』第6号、日本考古学協会:208.)

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京都大学が所蔵する慶陵武人像が日本に持ち込まれた経緯について [学史]

「京都大学に所蔵される壁画武人像は、東陵(興宗陵)墓道西壁に描かれていた儀仗兵のひとりである。東陵では、墓道のみならず、墓室各壁面にも現地の春夏秋冬の風景を描いたいわゆる「四季山水図」をはじめとするさまざまな壁画が描かれていたが、結果としては、この武人像のみが緊急保存措置として日本に将来されることになった。以後、この壁画は、1952〜3年の『慶陵』の出版で紹介されたことをのぞき、おおむねは隔離保存された。(中略)
武人像壁画は、遼文化の素晴らしさを証明する実物であり、この時代の東アジアの歴史について、北宋を中心にとらえがちだったこれまでの通念に再考を迫るものである。また、戦前・戦後の不幸な時代をのりこえて、現在から将来にわたる日中文化交流のかけ橋となるものであり、さらには人類文化の屈指の遺産のひとつでもある。」(京都大学ニュースリリース 2006年5月30日 京都大学文学部百周年記念展示「百年が集めた千年」 )

慶陵の壁画については、1952年の本報告刊行以前に『美術研究』という東京国立博物館が発行する雑誌にその概要が報告された(1949「慶陵の壁畫 (上)・(中)・(下)」『美術研究』第153号・第155号・第157号)。

「もともと、壙道部は露天にして、床面から両壁頂にいたる空間は、割石を混じる砂土をもつて充填されているため、壁畫はいずれも土砂の密着することによつて、いちじるしく汚損されており、とくに西方壁面は、東方壁面に比してそれが一そうはなはだしく、人物の一人一人を識別することすら困難を感じさせる。ところが、ただ羨門にもつとも近く立つ第一の人物像のみは、さきに第四章陵墓の構造の條において一言したように、入口を封鎖するため、羨門の前方に高くつみ上げられた塼によつて、かろうじて土砂の密着による汚損からは免れ、かなり鮮明にのこつていた。(略)
なお、壙道部の壁面は露天である上に、さきにものべたように、割石を混じた砂土をもつて埋めつくされていたため、漆喰の中にまで土砂が深く喰い入り、両壁面とも羨門に近い第一人物をのぞく以外は、ほとんど識別しがたいまでに汚損されていることは、まことに惜しむべきしだいであり、…(以下略)」(田村 實造1949「慶陵の壁畫(中)」『美術研究』第155号:165-166.)

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戦後意識 [学史]

「戦後意識」なるものが問われている昨今である。 

「楽浪の調査研究は、戦争がひどくなってからも細々とつづけられ、昭和17年と18年には石厳里で木槨三基が、また18年と19年には同じく石厳里で塼槨四基が調査され、さらに19年には土城址で小発掘が遂げられたと聞いている。ことに17年発掘の木槨は周囲に板石をめぐらした珍しいものであったという。
楽浪遺跡の調査がすすむにつれて、保存の工事も続けられた。さきに昭和の初めに王盰墓の封土が復原され、なかの木槨の様子もわかるように施工されていて、その後になって彩篋塚が移築されたことはいま記した通りであるが、さらに楽浪郡治址の40ヘクタールにも及ぶ場所も、楽浪公園として造成するための費用の計上され、さきに述べた歩道や井戸そのほかのものが実地に見られるように計画されていたのである。おしいことに実現をみないうちに昭和20年になってしまった。」(駒井 和愛1972『楽浪 -漢文化の残像-』中公新書308:34-35.)

当事者ゆえの感慨なのか。それにしても1972年である。
1953年の第3次日韓会談で交渉を決裂させた「久保田発言」が撤回されてからも、18年が経過している。

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「NT」こと長廣敏雄 [学史]

「一美術愛好者である自分は、去る九月廿日(ママ)大同同盟電報によつて、山西省大同を占拠したわが軍は、大同懸域より西南約三十支里にある雲崗大石窟寺の保護令を発して、千古の美術品の敗散(ママ)支那兵の破壊行為から之を守つたときいて、これでこそ日本軍だと深く心に銘した。」
「筆者は支那の今日、残されてゐる歴史的建築物が、たゞ僅かに岩山を彫つて石窟とした所謂石窟寺のみを止めているのを実見した。しかも支那の貧農や無頼徒は金銭に代へるために平時でもそうだが殊に飢饉、戦渦に遭へばその石窟内に寝食して仏頭、仏体を破壊、売却するのである。この古美術の価を坑道内の鉱石を掘りとると同様に考へるか、或はその破壊を防いで保護するかの違ひによつて、動物人間であるか一人の人間であるかの差が生ずる。赤十字のマークを掲げた船を襲撃するか否かの相違にも似るのだ。」
(NT1937「戦塵余録『大同石仏』保護令 -皇軍の文化擁護-」『土曜日』第42号、1974『土曜日』復刻版、三一書房、藤井祐介2007「統治の秘法 -文化建設とは何か-」『大東亜共栄圏の文化建設』人文書院、19.)

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タグ:倫理 学史
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考古学者・八幡 一郎 (後) [学史]

1955年から56年にかけて河出書房から藤田亮策・後藤守一・上原専六の三氏を監修者として『日本考古学講座』が刊行された。その第4巻に挿入された『月報2』に掲載された宮川寅雄1956「考古学への夢」と題する小文を取り上げた一文である。 
宮川寅雄さんのお名前は、別の筋から聞き及んでおり、こうしたところでお目にかかるとは、ちょっとびっくりである。

「『日本考古学講座』編輯の裏に、隠された意図のあることは、その成否のいかんを問わず、明々白々である。その一つの現れは、第二回配本に挿入された月報2(四月)の巻頭、宮川寅雄という人の文章に早くも見られるのである。
宮川氏は大正十五年ごろの
「考古学という学問は、墓堀りに特殊の技能をもった職人に思えた。だいいちその学友が地下の古物あつめの名人で、もっぱら遺物の分類をした原稿を「考古学雑誌」にのせて、われわれの期待する先史時代のイメージを描いてみせてくれることなどには、いっこうに介意していない風であった。」
と評している。大正十五年ごろ、日本では古墳墓の発掘をだいたい禁止しており、したがって墓堀り特殊技能者など存在しなかった。またそのころ氏の友人がもっぱら遺物の分類をして、氏等のイメージを満足させなかったとくどくのは、考古学という学問を思い違いしておったからである。」(八幡一郎1955「冒涜せられたる考古学」『人文学舎報』拾五,註:宮川1956を論評しているのが八幡1955というのはつじつまが合わず、八幡1956の誤りか?)

「隠された意図」とは何か? 半世紀も経過した今となっては「明々白々」ではないが、読み進めるうちにおぼろげながら明らかになってくる。
「墓堀り」というのは、あくまでも「発掘」という行為全般に対する一種の比喩に過ぎず、それに対してここまで過剰に反応するのは何故か?

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考古学者・八幡 一郎 (前) [学史]

「山内清男、甲野勇、八幡一郎(1902-1987)という、いずれも東京帝大人類学教室(選科)を出た三人の研究者は、しばしば「編年学派」と呼ばれるが、ここで甲野を取り上げるのは、彼が戦時中、厚生省(民族:引用者挿入)研究所人口民族部に勤務し、戦争遂行と関わる研究を行った人物でもあるからである。」(坂野2013「考古学者・甲野勇の太平洋戦争」:142.)

山内、甲野と来れば、次は八幡である(山内については、かつて[論文時評]山内1936「日本考古学の秩序」【2007-05-17】で触れた)。

はたして「考古学者・八幡一郎の太平洋戦争」は、どうだろうか?

 

「日本の考古学者が大陸の研究に専心するを見て、坊間、或いは学問の侵略主義なりと謗り、時にはファッショの手先なりと叱呼する者がある。さうした言葉の裏に種々なる僻みや嫉視が含まれてゐることは否むことが出来ない。大陸に於ける研究上の様々なる苦心は到底内地のそれの比ではなく、扁々たる名誉欲だけで能くし得るものではないのである。しかも其研究者は単なる闇黒地探求の好奇心に止まり得ず、絶えず極東の闡明、日本の闡明を志してゐる。謂はれなく大陸研究者を謗る諸君よ、諸君は他日其土産の意外にも豊富なるに驚くであらう。否他日を俟たずとも、今次の両君の著作の内から発見し得るものが如何に多いかを知るに違ひない。」(八幡一郎1935「内蒙古・長城地帯」『考古学』第6巻 第6号:277-8.)

 

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神田 孝平 [学史]

「今の蘭学者は悉く不便を感じて居るに違ひない。迚も今まで学だのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見やうと斯う思ふたが、此事も中々易くないと云ふのは、其時の蘭学者全体の考は、私を始めとして皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸で之を棄てヽ仕舞て英学に移らうとすれば、新たに元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ないつらい話である、譬へば五年も三年も水練を勉強して漸く泳ぐことが出来るやうになつた所で、其水練を罷めて今度は木登りを始めやうと云ふのと同じ事で、以前の勉強が丸で空になると、斯う考へたものだから如何にも決断が六かしい。ソコデ学友の神田孝平に面会して、如何しても英語を遣らうぢやないかと相談を掛けると、神田の云ふに、イヤもう僕も疾うから考へて居て実は少し試みた。試みたが如何にも取付端がない。何処から取付て宜いか実に訳けが分らない。併し年月を経れば何か英書を読むと云ふ小口が立つに違ひないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気が宜いから遣て呉れ、大抵方角が付くと僕も屹と遣るから、ダガ今の処では何分自分で遣らうと思はないと云ふ。」(福沢諭吉1899『福翁自伝』)

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『日本考古学』の考古学 [学史]

「他の多くの学会と異なり、当協会は1948年の創立以来、会員の研究成果を発表する定期刊行物を持たないまま今日に至りました。これは、創立当時、先発の日本考古学会との間に交わされた紳士協約にもとづき、両学会の事業の重複と競合を避けるためにとられた措置であります。(中略) 日本考古学会の了承を得た上で機関誌を発行し、学会としての形を整えることを決定しました。」(横山浩一1994「創刊のことば」『日本考古学』第1号:巻頭.)

先行学会の了承を得ないと発行できない機関誌とは、どのようなものなのか?
なぜ「他の多くの学会と異なり」、そのような「紳士協約」などというものを結ばなくてはならなかったのか?
法人化という外圧が生じるまでは手を触れることさえなかったその「紳士協約」という名の縛りは、如何なるものなのか?
そもそも「学会としての形を整えること」がなかったとされた46年間とは、いったい何だったのか?
こうした疑問は、私一人だけのものではなかったようである。

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大湯環状列石 [学史]

「帰京後、朝日新聞社の後援で日本古代文化学会で本環状組石群の再調査の計画を練り、後藤守一博士を調査主任として甲野勇先生、塩野半十郎、吉田格氏なども加わり、筆者も加えて、計五名が大湯ホテルに泊りこみで調査を実施することになった。」(江坂輝弥1968「大湯環状組石遺跡調査の頃」『甲野勇先生の歩み』多摩考古学研究会編:77. 下線引用者、以下同)

「甲野氏と共に熱心に発掘に関係せられた江坂輝弥氏の書簡によって当時の状況を述べる事にする。(中略) 又一月下旬乃至二月中旬遺物と遺跡の写真展を朝日新聞後援にて日本古代文化学会と慶応義塾大学文学部、民族学、考古学研究室主催にて慶応の民族学、考古学標本陳列室にて開催致したいと考えて居ります。(中略)」右は昭和二十一年十二月八日附江坂輝弥氏の書簡であり、その当時から同氏が如何に活動していられたかよくわかるのである。」(大湯郷土研究会1973『特別史跡 大湯環状列石発掘史 全編』:65.)

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