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緑川東の「必要」と「安易」 [考古誌批評]


2017年2月19日に開催された公開討論会における討論個所の記録化作業も進んでいるようである。
例年通りの発行ならば5月下旬には『東京考古』の最新号に掲載されるだろう。

「一方の敷石除去に関しては遺物出土状況からは確証が得られない。しかし、接合礫02・04・10・12などに床面レベルと壁ぎわ上部の接合が認められる点や(第82図)、のちに石棒上に投入される大形の接合礫09・53が除去された敷石の可能性を有する(図版7)といった状況証拠はある。また竪穴南西部に必要以上に積み上げ、あるいは敷石上に放置された礫の状態からも(図版7)、剝がされた敷石の行方を推測することができよう。」(黒尾・渋江2014「遺構における遺物の出土状況」『緑川東遺跡 -第27地点-』:131. 下線強調は引用者)

先の『公開討論会「緑川東遺跡の大形石棒について考える」資料集』にも「敷石遺構SV1出土石棒の「並置」のタイミング」(3-4.)と題してわざわざ再録された文章である。いわば「廃棄時説」のカナメとも言えよう。

その中で気になるのは「必要」という言葉である。
この場合の「必要」とは、誰にとっての、どのような「必要」なのだろうか?
当然のことながらSV1を構築した当事者にとってどの程度壁面に礫を積み上げる「必要」があったかなどは、私たちに推し量る術もない。ということはあくまでも現代の私たちが、おそらく彼ら/彼女らにとってはこの程度は「必要」なのだろう、これ以上の高さに積めば「必要」以上なのだろうと推測した限りでの私たちの価値観を投影した「必要」なのであろう。

ところが、ここから次なる問題が生じる。
すなわち「廃棄時説」の根本は、通常の敷石住居(SI)を再利用して(中央部分の敷石と炉を除去して)大形石棒を設置して特殊な遺構(SV)にしたという「通常住居再利用説」なのだが、この場合の「通常の敷石住居」なるものを規定している要件こそが、正に「必要以上に積み上げない」という壁面敷石状況の「必要」性なのである。だから「必要以上に積み上げている」と考えたSV1という遺構は、「必要以上に積み上げない」「通常の敷石住居」ではないと自ら公言していることになりはしないか?

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下原・富士見町遺跡Ⅲ<承前> [考古誌批評]

石材-石質-石質細分の非連動性以上に問題なのは、石材や石質や石質細分と接合個体の非連動性である。

「接合番号:接合個体を識別するIDで4桁の数字で表されている。0001番から接合した順序に新しい番号を与えていったので、最初は連番になっていたが、接合個体同士が接合した時に2つの接合番号が統合され、1つの番号(原則として若い方の番号)になった時、もう1つの番号は間違えのないように欠番としたため、抜けている番号がある。」(Ⅲ(2):16.)

ある接合個体は、ある石質細分あるいは石質あるいは石材に含まれるのではないのか?
こうした基本的な事柄が、どうして関連付けられずに「接合した順序に新しい番号を与えていった」という場当たり的な命名システムになってしまうのだろうか? 
述べられるべき問題は、欠番があるとかないとかではなく、より本質的な事柄が指摘されていたはずである。

「石材・原産地・母岩(非接合資料を含む)・接合(石核と剥片を含む場合は個体)・石器(石核・剥片など)という整合的な資料提示が必要である。」(五十嵐1998「考古資料の接合 -石器研究における母岩・個体問題-」『史学』67-3・4:120.)
「基礎データの提示としての報告書も、自らの報告内容の中だけで完結する自己満足的な提示方法ではなく、あらゆる状況に対応しうる提示方法と用語体系の構築が意図されなければならない。その上で、ただ接合すればよいというのではなく、接合実測図や接合分布図を材料として何をいかにして見い出していくのかという明確な意図が示される必要があろう。本稿で提示した問題の所在が受け止められ、生産的な議論がなされることによって現在の石器研究におけるもつれた糸が少しでも解きほぐされることを願う。」(同:121.)

未だに「整合的な資料提示」がなされずに、糸はもつれたままということの原因は何なのだろうか?
非整合的で自己満足的な資料提示の方が単に楽だから、といったことなのか?
遺物群の垂直方向の区分(「垂直区分帯」)や集中部の設定(Ⅲ(1):12-20.)には、あれだけ詳細で緻密な作業がなされているにも関わらず。
おそらく接合資料の表示システムを石材などと連動させないほうが、より有益であるとの判断に基づくのだろう。

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下原・富士見町遺跡Ⅲ(2) [考古誌批評]

東京都三鷹市・調布市 下原・富士見町遺跡Ⅲ 後期旧石器時代の発掘調査(2) 石器接合資料とその分布 2004~07年度明治大学附属明治高等学校・明治中学校新校舎建設予定地における埋蔵文化財発掘調査報告、明治大学校地内遺跡調査団調査研究報告書6、明治大学校地内遺跡調査団編、学校法人 明治大学 2016.7

日本全国の旧石器研究者が注視していた10年以上に及ぶビッグ・プロジェクトの最終成果品である。

「個体類型、MB、MC、MFの最初の1桁のMは個体を表しており、2番目のB、C、Fはそれぞれ折れ、石核、剥片の意味である。よって、MBは折れ・折り接合のみによって接合している個体を表している。MCは接合個体の中に石核を含む接合個体を表し、MFは剝離接合のみで、石核を含まない接合を表している。」(鈴木:15.)

そもそも、といった事柄から論じなければならない。

「「割る」という行為と、「割る」ことによって生じる「(剥片)剝離(剝離面)」(removal)という現象(痕跡)が区別される。こうした1回の打ち割り動作によって生成される石器資料(主に剥片および石核)を「石器単位」とする。(中略)
「折る」という行為についても、「折る」ことによって生じる「折損(折損面)」(breakage)という現象(痕跡)を区別する必要がある。打ち割りによって生じた「石器単位」に対して、その「石器単位」が「折れる」ないしは「折る」ことによって分割された破片(fragment)を「石器要素」とする。」(五十嵐2002「旧石器資料関係論」『研究論集』第19号:35.一部改変)

提示された「MB」・「MC」・「MF」という接合個体類型は、同等の、すなわち同じレベルの類型といえるのだろうか?
折損面での接合(私の「2類接合」)に対応するのは、剝離面での接合(私の「1類接合」)だけなのではないか?
どうしても剝離面接合個体において、石核が含まれるか含まれないかを識別したいのならば、階層を一つ落とした区分、亜類型としなければならないのではないか?
そもそもなぜ、それほど石核が含まれるか含まれないかにこだわるのだろうか?
ここから、ぼんやりと「砂川神話」が透けて見えてくる。

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朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告』 [考古誌批評]

朝鮮総督府1931・32『大正十三年度古蹟調査報告第一冊図版・本文』慶州金鈴塚飾履塚発掘調査報告(梅原 末治編1973『慶州金鈴塚飾履塚 -大正13年度古蹟調査報告-』国書刊行会として復刊)

1924年に調査した資料について、7年後に図版編、翌年に本文編が出版され、42年後に合冊となり復刊された。
85年前の日本人考古学者は、このような文章を書いていた。

「…いよいよ五月十日から作業に着手した。處が事実は豫想に反して、半壊と考へてゐた両古墳ともに、主要部をなす積石は地下に埋もれて殆んど全容を遺存し、人家の間にあつて其の採掘に多大の苦心を要するものがあり、中心に到達する二週間のうちに屡々歎聲を發せしめたが、而も普門里古墳の發掘に経験のある澤氏の土工上の剴切な處置が効を奏して、西古墳の深さ十尺を超へた地中から金冠塚で見たと同様な腰佩金具が見出され、ついで金冠、珠玉等を検出、更に無数の副葬品を獲ることゝなつて、其の労苦が十分に酬ひられ、引続いで東方の一基からも多数の遺物を発見して、両者の調査に四十餘日を費したとは云ひ乍ら、大正十年に於ける金冠塚と姉妹的な発見を遂げて、是等を学術上の見地から調査記録した事は、局に當つた者の永久に忘るべからざる快事として、兼てまた総督の期待に添ふものあるに哀心の愉悦を感じたところである。」(3-4.)

「朝鮮総督府嘱託」との肩書による梅原末治氏の文章である。
「哀心の愉悦」といった表現も今や死語であろう。

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江上1937『蒙古高原横断記』 [考古誌批評]

江上波夫(東亜考古学会蒙古調査班)1937『蒙古高原横断記』朝日新聞社
(本記事は、当該書第一章を収録した池内 紀 編1997『江上波夫の蒙古高原横断記』五月書房による)

「かくて昭和五年十二月末、蒙古旅行より北平に帰るや否や、江上は東亜考古学会宛て書信を送ってシリン・ゴルを中心に蒙古高原の地質学的、人類学的、考古学的探査の必要を力説し、学会もその議を容れて、昭和六年四月より東京において実行の準備に取り掛かった。すなわち横尾(人類学)を団長に、江上(考古学)松沢(地質学)竹内(言語学)が隊員となり、旅行の順路、乗り物、時期等に合議し、調査及び旅行に必要な携帯品を整備した。」(「発端」16-17.) 

先週の日本考古学協会「文化財に関する諸問題検討会」では、横浜ユーラシア文化館の方を招いて、オロンスム出土資料などの江上コレクションに関する話しを聞く機会があった。
今回紹介する「蒙古高原横断記」は、オロンスム発掘調査以前の調査旅行に関わるものである。

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阿部1976『沼ノ平遺跡出土石器群の研究』 [考古誌批評]

阿部 祥人 1976 『沼ノ平遺跡出土石器群の研究』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室編、小報2 (青色表紙の研究室版と灰色表紙の学生社版の2種類ある)

「沼ノ平遺跡の調査は、1960年に数点の石器が発見されたことに端を発する。その後、約10年間にわたり当遺跡の発見者阿部酉喜夫や慶応大学考古学研究会員等によって踏査がつづけられた結果、400点以上の石器(註1)が表面採集された。それらはすべて打製石器であり、その他には土器などの遺物が全く発見されなかった。このような遺物組成の性格が注目されたため、周辺の地域に数多く存在する先土器時代遺跡の一連の調査結果との関連が問題となり、より精密な調査を行なう必要性が認められるに至った。
そこで1972年4月、慶応大学考古学研究室の清水潤三教授を中心に、山形大学の加藤稔氏等の協力を得て、遺物包含層と遺物相互の共伴関係の確認を主要な目的とした発掘調査が行われたのである。」(11.)
[註1] ここでの「石器」とは、二次加工の有無に関わりなく人工の加えられた石片(stone artifact)の意である。(30.) 

寒河江市史編纂委員長を務められた御尊父が遺跡の発見者であることが記されている。
地元では当時(あるいは今も?)、大先生・小先生と呼び分けられているようである。

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田村2014『市原市柏野遺跡』 [考古誌批評]

『首都圏中央連絡自動車道埋蔵文化財調査報告書22 -市原市柏野遺跡-』千葉県教育振興財団調査報告第721集(田村 隆2014「旧石器時代」:11-245. 316-319.)

「わが国の旧石器考古学は、二つの錯誤の上に成立していた。一つは、遺物集中地点を居住や石器製作~石器使用の場と直接対応させようとする「月見野仮説」であるが、この仮説はすでに過去のものになった(田村2012「ゴミ問題の発生」『物質文化』92号 1~37頁)。遺物の廃棄や遺棄などと軽々しくいえない(鹿又喜隆2011「石器の空間分布による遺棄・廃棄行動の解釈の妥当性」『旧石器考古学』74 61~75頁と比較せよ)。 (中略)
もう一つの錯誤は、遺跡から出土する石器群を、一定の技量をもった成人の工作物と考えることである。この誤った前提の上に、技術形態学的な議論が組み立てられてきた。本文中で再三指摘してきたように、本遺跡の石材消費は、稚拙な石割から、高度の達成を示すものまで一連の消費スペクトラムを構成しており、これを子供の関与によるものと考えた。この仮説を「チャイルド・プレイ仮説」とよんでおこう。」(318.)

先の第18回石器文化研究交流会における新田浩三氏の発表「千葉県における近年の旧石器時代遺跡調査の動向」『石器文化研究』第20号:50-53.によって教えられた「田村ワールド」全開の最新考古誌である。

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『緑川東遺跡』 [考古誌批評]

株式会社ダイサン 2014 『緑川東遺跡 -第27地点-』介護老人保健施設国立あおやぎ苑増築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書

各方面から注目される遺構に関する多方面にわたる詳細な記載がなされた考古誌である。
本年3月に行われたシンポジウムに関する記事【2014-03-08】での問題提起、「巨大石棒の埋置は敷石遺構構築時であった可能性はないのか」という点にしぼって読解してみる。

「…発掘調査時には確認できなかったが、4本の石棒を並置するにあたり既存の敷石を除去して浅い掘り込みを設けた可能性を考慮する必要があるだろう。」(遠藤・渋江:18.)
「まず石棒の遺存範囲には敷石が認められなかった。ついで、4本の石棒の下面レベルは標高71.04~71.08mで、周囲の敷石上面レベルの標高71.14~71.18mよりも10cmほど低く、想定される床下にめり込む状態で遺存していた。さらに石棒発見時、大きめの土器片や割れた扁平礫が石棒上に無造作に投入された状況で出土(巻頭図版4)、土器の一部破片は石棒直下にも遺存していた(詳細は後述)。これらの状況証拠から、4本の石棒を並置するにあたり既存の敷石を除去して浅い掘り込みが設けられた可能性を示唆した。」(黒尾・渋江:87.)

報告者の前提的結論は、「既存の敷石を除去して」「4本の石棒を並置」したというものである。
「これらの状況証拠から」、どのようにして「既存の敷石を除去して浅い掘り込みが設けられた可能性」が導かれるのか、すなわち敷石遺構構築時に4本の石棒が並置された可能性はなぜ、どのようにして棄却されるのかについて述べられることはない。

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安藤編2014『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究』 [考古誌批評]

安藤広道編 2014 『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究』2011~2013年度科学研究費補助金研究成果報告書

「…今、我々が真摯に、また急いで取り組むべきは、正論を念頭に置きながら、これまでの実践のなかで得られた情報を、多くの人たちが利用できるようなかたちでまとめ、それを継承していくための具体的な取り組みを進めること、そして、それらの情報を有効に活用しつつ、戦争関係の遺跡・遺物をめぐる歴史実践の意義を、これまで以上に明確に示していくということであろう。」(2.)

2008年に発覚した蝮谷体育館建設に伴う地下壕出入口の破壊、その考古誌の作成(慶應義塾大学2011)、それにも関わらず再び民間開発事業地で発生した2013年の地下壕出入口の破壊などを踏まえた上での研究プロジェクトの成果報告である。

「日吉キャンパス一帯の戦争遺跡研究の序」(安藤広道)
「日吉キャンパス内の地下壕群の調査」(安藤広道)
「艦政本部地下壕の調査」(櫻井準也)
「矢上台周辺における小規模地下壕の調査」(千葉 毅)
「日吉台地下壕に関する音声・映像資料について」(都倉武之)
「戦争末期の海軍による大倉精神文化研究所の利用について」(林 宏美)
「アジア太平洋戦争前後の日吉一帯に関する手記と聞き取り」(安藤広道)

ここでは研究プロジェクト全体の指針ともいうべき冒頭論考について感想を述べたい。

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小野・日比野1990『陽高古城堡』 [考古誌批評]

小野 勝年・日比野 丈夫 1990 『陽高古城堡 -中国山西省陽高県古城堡漢墓-』東方考古学叢刊 乙種第八冊、東方考古学会、六興出版

「中国山西省・陽高古城堡の漢墓は人骨とともに玉匣、羊形鎮子、戈の柄頭、石突など類まれな多彩な副葬品が出土し、世界的な注目を集めた。1942(昭和17)年東亜考古学会により漢墓としては当時初めて本格的な発掘調査がなされたが、半世紀を経てその全貌を公開する画期的な報告書が完成した。」(1990年6月 『六興出版だより』)

1946年には小野・日比野両氏によって『蒙彊考古記』と題する発掘日誌が公刊された。
1945年10月1日の日付をもつその「自序」。
「すでにあのときからまる三年の年月がたつたのだ。世の中は當時においては全く想像もつかぬ変化を遂げてしまつた。
いまさら当時の日記を公けにしようなどといふことは、決して進んでできるわざではない。もしこれを計画した當初だつたなら、実際もつと張切つた気持でこの序文を書くことができたであらう。
しかしもはやかうした繰り言を述べるのはよすことにしよう。われわれはあの戦争のさ中にあつても、自分達の学問の途をまつしぐらに邁進してきたつもりである。それは戦争をも政治をも超越した東亜古文化の究明といふ仕事だつたのである。」(小野勝年・日比野丈夫1946「自序」『蒙彊考古記』1-3.)

それから45年が経過した。更に「全く想像もつかぬ変化を遂げてしまつた。」

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