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<title>第２考古学 ２０１２</title> 
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<modified>2012-05-23T03:16:50Z</modified> 
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<tagline><![CDATA[第２考古学とは、何か？　それは、従来の考古学で主流をなしている編年研究、すなわち過去についての知識ではなく、考古学独自の思考方法を考える研究である。]]></tagline> 
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<title>幻の第3回特別委員会</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2012-05-23">
<![CDATA[
<p>5月18日に質問状を公開して以来、今に至るまで応答がない。<br />与えられた僅かな情報から想定できる事態として、現時点では以下の３つの可能性が考えられる。 </p><p>１．３月理事会議事録および４月理事会議事録の特別委員会の開催回数の誤記。<br />　しかし学識経験者が十人以上も揃っていながら、このような単純なミスをミスミス、見逃すだろうか？　<br />　それも３月理事会だけではなく、４月理事会においてすら。<br />２．実際に第３回特別委員会は開催されたのだが、何らかの事情で理事会への報告がなされず、幻となった。<br />　しかし流会なら流会との報告がされてしかるべきであり開催次数はカウントされるはずもなく、実際に開催されたのなら、どのような事情で理事会に報告されないのか理解不能である。<br />３．第３回特別委員会開催の理事会への単純な報告し忘れ。<br />　しかし学識経験者が・・・（以下略）</p><p>いずれも、すぐには理解しがたい。<br />謎は、深まるばかりである。<br />そもそもの始まりは、以下の文章からだった。</p><a name="more"></a><p>「アンケート用紙を12月刊行の『会報』発送に間に合せるには、10月中に開催する必要があり、協議の結果、第３回の特別委員会は以下の通りとなった。<br />日時　2011年10月17日（月）午前10時30分より <br />場所　日本考古学協会事務所 」<br />（「第２回協会図書に係る特別委員会 議事録」）</p><p>しかし12月刊行の『会報』にアンケート用紙は見当たらなかった。<br />果たして10月17日に予定されていた第３回特別委員会は、開催されたのか？<br />それゆえに、2012年1月28日に開催された1月理事会報告が注目されたわけだが、そこにはそもそも特別委員会の報告項目自体が存在していなかった。<br />そして3月24日に開催された3月理事会報告で、いきなり3月17日に開催されたという第４回特別委員会の報告がなされた。半年にわたる空白期間をおいて。第３回を飛ばして。泉委員長の「特別委員会は設置要綱により２年間と定められている。協議する時間が限られている中、スピードとタイミングが求められる」（第３回準備会議事録）という発言がわざわざ紹介されているにも関わらず。</p><p>そもそも3月1日の日付が記されている「日本考古学協会図書に係るアンケート」の内容・文案は、いつ、そしてどのようにして検討され決定されたものなのだろうか？<br />幻の10月17日の第３回？　それとも9月10日の第２回？　しかし第２回の議事録には「12月刊行の『会報』№174で、アンケート調査を実施する」としか記されていない。「12月刊行の『会報』発送に間に合せる」ための10月17日開催予定の第３回だったはずだが、実際に間に合わなかったのだから、やはり開催されなかったのだろう。<br />もし9月10日の第２回特別委員会から3月17日の「第４回」特別委員会までの期間に、正式な特別委員会が開催されなかったとしたら（実際、理事会に対してはそうした報告はないのだが）、3月1日付けで「協会図書に係る特別委員会」名で作成された本アンケートは、正式な特別委員会の議決を経ずに作成・実施されたことになる。もしそうだとしたら、こうしたアンケートの集計結果について、どれほどの効力、有効性があると言えるだろうか？<br />少なくとも、この間の経緯が判るような特別委員会の議事録が、5月26日開催の総会までの間に大至急公開される必要があるだろう。</p><p>もうひとつ気になるのは、５人の委員で構成されているという第１部会が担当する目録作成、デジタル・データ化作業の進捗状況である。<br />2011年7月9日の時点では、水村事務局長から「全体の約60％が完了している。」「12月末の完了を目指している」との発言がなされている（第３回準備会議事録【報告】（４）蔵書目録データ化の状況について）。<br />当然、年が明けた1月ないしは2月には、ホームページ上で目録が公開されて、初めてすべての人に懸案の「協会蔵書」の全貌が明らかになる、少なくとも「56,420冊」「57,530余冊」と揺れ動いた総数も確定するだろうと期待されたわけである。あるいは最悪でも、作業の進捗が諸般の事情により予定より遅れているといった途中経過の報告がなされるだろうと。<br />しかるに1月28日開催の1月理事会でも、3月24日開催の3月理事会でも、4月28日開催の4月理事会でも、目録デジタル化作業の進捗については、全く言及がなく、あたかもそのような懸案事項は存在していないかの如くである。<br />協会図書の全貌把握（オンライン公開）は、新たな「募集要綱」の作成そして総会での承認という作業の前提項目ではないのか。</p><p>協会図書アンケートに関する記事【2012-03-12】において、3月理事会あるいは4月理事会での適切な対処を期待しつつ第３回特別委員会を巡る問題を指摘したのだが、その際に危惧したメルトダウンが現実に進行しているようで更に不安は高まる。</p>
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<title>緊急：公開質問状</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-05-18 00:10:02+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p>日本考古学協会さま</p><p>１．<a href="http://archaeology.jp/proceedings/201109.htm" title="2011年9月理事会">2011年9月理事会議事録</a>の報告第125号「協会図書に係る特別委員会報告」にて、9月10日に第2回特別委員会が開催されたことが記されています。<br />２．<a href="http://archaeology.jp/proceedings/201203.htm" title="2012年3月理事会">2012年3月理事会議事録</a>の報告第153号「協会図書に係る特別委員会報告」にて、3月17日に第4回特別委員会が開催されたことが記されています。<br />３．<a href="http://archaeology.jp/proceedings/201204.htm" title="2012年4月理事会">2012年4月理事会議事録</a>の報告第161号「協会図書に係る特別委員会報告」にて、4月14日に第5回特別委員会が開催されたことが記されています。</p><p>質問：<br />第3回協会図書に係る特別委員会は、いつ開催されたのでしょうか？<br />そして、その報告が理事会でなされないのはなぜなのでしょうか？<br />そして、その<a href="http://archaeology.jp/tosho/index.htm" title="図書問題">議事録</a>が公開されないのはなぜなのでしょうか？</p><p>総会開催も押し迫っております。<br />よろしくご返答お願いいたします。</p><a name="more"></a>
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<title>第２考古学セミナー2012＃１のお知らせ</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-05-16 20:30:25+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2012-05-16">
<![CDATA[
<p>日時：　2012年 5月 23日（水） 午後6時30分～<br />場所：　慶應義塾大学 三田キャンパス 研究室棟 地下１階 民族学考古学演習室（B124）<br />（研究室棟入口入ってすぐの階段下りて右側の通路右方向に進んだすぐ右手の部屋、奥のドアからお入り下さい。）<br />内容：2012年5月26日（日）<a href="http://archaeology.jp/convention/sokai2012.htm#AURAL" title="日考協78総会">日本考古学協会第78回総会</a>セッション２遺跡資料リポジトリにおける発表「考古学における情報公開そして普及」の予行演習</p><p>[追記]　<br />水山昭宏さんの予行発表「<a href="http://maia.exblog.jp/15325998/#15325998_1" title="ＭＬＡ＋考古学連携">ＭＬＡ＋考古学連携</a>」も行なわれることになりました。</p><p>第２考古学に関心のある方ならどなたでも、老若男女問わず大歓迎です。事前申し込み不要。</p><a name="more"></a><p>最終的に行き着く点は、「終局の問題」である。<br />本発表の前段をなす前発表（<a href="http://rarcom.lib.shimane-u.ac.jp/general/doc/2011wstokyo_igarashi.pdf" title="デジタルとアナログの狭間で">五十嵐2011「デジタルとアナログの狭間で」）</a>でも言及した文章であるが、他を見回しても相応しいものが見当たらず、常にここに行き着いてしまう（【2011-11-17】・【2011-12-01】参照）。</p><p>「なぜ考古学がこんな状況のもとに低迷しているのだろうか。その原因の一つは考古学アカデミーにある。とうぜん日本考古学の主体となって、その学の正しいあり方を導くべき大学の考古学が知識欲の追求と、資料追随主義という学問の錯覚に毒されて、それ自体爛熟し化膿して崩れかかってきているのである。現に資料も資力も持たぬ巷の考古学究が、生活にすら絶望しながら、方向はともあれわくわくと心を湧き立たせて、私たちの国土を、私たちの祖先を、私たちの精神を、私たちの不滅の魂を、真実の上代史の中に求めようと、血みどろになって努力をしているのに、なんとわれわれのアカデミーは、みみずと古き美の死骸を、いまだに野良犬のようにあさってうろうろしている。国外にまで出かけてその国の民族の遺産を頂戴しようという勢いである。<br />指導者よ、かえりみるがいい。大学は何人の学究的現役をいま出しているか。何人の正統アカデミーが、正しい学問を目がけて邁進し苦闘しているか、いったい何を教えたのだ。一個人に生活の糧を与えただけで大学はいいのだろうか。幾人かの大学者がそれぞれの時代を牛耳ってきたが、それらの指導者は真実に命を捧げうる何人の弟子を育てたか。弟子は奸佞（かんねい）に先生の殻を守るか、そのための心の貧困をいとう者は止めてしまったかどちらかだった。残ったものは莫大なレポートと、手もつけられなくなったこれも莫大な量の古代の死骸であった。資料、資料で学問の体系も精神もひしがれてしまった学問がゆきづまって、考古学は古代史への正当な発言権の一切を失い、その上Ｋ博士事件に見る犠牲を生んだのだといわれて、誰が弁明の余地があるだろう。」（藤森 栄一1974(1938)「掘るだけなら掘らんでもいい話 -若き考古学の友へ-」『考古学・考古学者 藤森栄一遺稿集』：18-19.）</p><p>こうした文章が日中戦争の最中に記されたとは俄かには信じがたい程である。<br />時代を窺わせるのは、僅かに「奸佞」（心がねじけて人にへつらうこと）といった言葉ぐらいであろうか。<br />最後に述べられている「Ｋ博士事件」とは、もちろん1938年に清野謙次京都帝国大学医学部教授が窃盗により逮捕・免職となった事件を指す。<br />現在に置き換えれば、当然2000年11月5日に発覚した「捏造事件」であるが、考古学に与えた影響は比較しようがない。しかるに私の心に残るような「怒り」や「憤り」が示されることは、まずなかったようである。これは、単に「文才」の問題ではないだろう。</p><p>さらに「国外にまで出かけてその国の民族の遺産を頂戴しようという勢い」という侵略考古学（近藤義郎2008『近藤義郎と学ぶ考古学通論』：65.）に対する批判も。<br />東亜考古学会が「渤海国上京龍泉府址」を調査したのは、1933・34年のことであった（【2010-04-15】参照）。</p><p>そして今から74年も前！！にすら「莫大なレポート」「莫大な量の古代の死骸」とされていた問題を、「われわれのアカデミー」は、2012年の現在いったいどのように対処しようとしているのだろうか。</p>
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<title>晋州シンポジウムに参加して、日本の国宝問題に想いを巡らす</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-05-09 06:50:15+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p><strong>2012「晋州シンポジウム（韓日文化財交流大会）に参加して、日本の「国宝問題」に想いを巡らす」『韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報2012』No.1、韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議編</strong>：11-13.</p><p>「2010年6月にスタートした私どもの連絡会議のささやかな活動ですが、さらに内外にネットワークを広げながら、文化財の調査を進め、解決の道筋を一緒に考えていきたいと願っています」として、5月1日に創刊された『年報』に、当ブログに掲載した２つの記事、「韓日文化財交流大会」【2011-12-22】と「「国宝」という問題」【2012-01-05】を合わせて一部修正した文章が掲載された。</p><p>先日、新聞紙上において中国大陸における遺棄化学兵器による被害が報じられていた。<br />現在、内閣府大臣官房の所管で「<a href="http://wwwa.cao.go.jp/acw/jigyo.html" title="遺棄化学兵器処理担当室">遺棄化学兵器処理担当室</a>」という組織が現地での発掘・回収作業を進めている。まさに、近現代考古学である（【2007-07-19】も参照のこと）。どのような部隊が、どのような指揮系統のもとでいつどのように遺棄したのか、詳細な「発掘調査報告書」が待たれる。<br />戦争という非常時に、隣国に攻め入った国が、自らにとって都合の悪い＜もの＞を現地に埋めてきて、それが今に至って地域住民に被害を及ぼしている。<br />それに対して、自らにとって、欲しい＜もの＞を力を背景にして奪ってきたのが、「略奪文化財」である。本来的には、遺棄化学兵器と同様に、内閣府大臣官房の所管で「略奪文化財返還担当室」といった組織が設立されて然るべきと考える。<br />勿論、一方は住民に対して直接肉体的な被害を与える緊急性を要する事業である。事態の収拾に責任を負う国家が主体となるのは、当然である。<br />しかし、もう一方についても直接的で肉体的な被害こそ与えないまでも、暗い収蔵庫から目に見えないそして人の尊厳を損なう倫理的な被害をもたらし続ける。<br />両者は、身勝手さの合わせ鏡のような存在である。</p><a name="more"></a><p>【お知らせ】<br /><strong>韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議公開勉強会</strong><br />日時：2012年5月13日（日） 午後3時～5時<br />場所：韓国ＹＭＣＡアジア青少年センター302号室（千代田区猿楽町2-5-5）<br />内容：報告１．日本にある朝鮮半島由来の鐘と仏画について -現況と将来への展望-（姜 健栄氏）<br />　　　　報告２．日本に存在する韓国文化財に関する「還収（返還）」に関する一考察 -利川五重石塔の事例から-（孫 孝珍氏）<br />主催：韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議</p><p><strong>＊会員を募集しています＊<br /></strong>文化財の専門家や研究者だけでなく、市民がまわりの文化財を調査し、文化財を通して歴史を学び、考える新しい市民運動です。<br />会費は年会費（個人）3,000円、（団体）5,000円、（賛助会費）10,000円です。<br />規約や申込書は、<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~vi6k-mrmt/culture/korea/index.html" title="韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議">ウェブ</a>で入手できます。<br />会費は、郵便振替（00140-9-607811）「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」宛にお送り下さい。</p>
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<title>田村2012「ゴミ問題の発生」</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-05-02 07:00:02+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

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<![CDATA[
<p><strong>田村 隆 2012 「ゴミ問題の発生」 『物質文化』 第92号</strong>：1-37.</p><p>「後期旧石器時代の遺物集中範囲は、住居や石器製作の跡だとみなされている。この考え方（月見野仮説とよぶ）は1970年代頃にうまれ、発言力のある諸兄姉と、忠実な弟子たちによってまたたくまに津々浦々に流布された。ところが、これまで40年もの間、この仮説が十分に検証されたことは一度もなかった。こうした現状にかんがみ、世界各地域における狩猟・採集民の居住キャンプの状況を参照することにした。」（1.）</p><p>ということで<br />「その結果は否定的なものばかりであった。月見野仮説に妥当性をみいだすことはできなかった。したがって、この仮説を基盤とする議論の成立する余地はほとんどないようにみえる。」（1.）<br />ということになった。</p><a name="more"></a><p>ところで、「発言力のある諸兄姉と、忠実な弟子たちによってまたたくまに津々浦々に流布され」るようになったのは、遺物集中範囲を住居や石器製作の跡とする「月見野仮説」だけではない。<br />「世界に例がない」「緻密な母岩分類」をもとに、＜遺跡＞内外の搬出・搬入を論じる考え方（「砂川仮説」とよぶ）もそうである。<br />「月見野仮説」は、人間行動がそのまま痕跡に反映しているとする、前回書評記事のトーマス2012『解釈考古学』でも紹介されていた「ポンペイ的前提」（334.）に、さらに特定の行動と痕跡を一対一に対応させるという「ナイーブ」なものである。</p><p>「石器製作場所は居住生活の中心の近傍にあった、という含みをもたせた指摘は、住居跡だ、集落だといったとんでもない方向に飛躍をとげたのである。この間の学内での討議がしのばれるが、かつて戸沢が慎重に回避していた方向への全面的な転換に注意すべきであろう。一度切られた舵はもとにはもどらないのがならいである。」（2.）</p><p>そして「遺跡の形成過程」について、Schiffer1972によるモデルが紹介される。そして「廃棄」には「遺棄（放置）」とは別に運搬を伴わない一次廃棄と運搬後の二次廃棄という少なくとも二つの区別の必要性が示される。</p><p>「わが国における1960年代後半期以後の石器群研究に欠落していたのは、１．集中範囲から出土する石器群の多くが、さまざま（な）行動の結果うみだされた廃棄物であり、２．集中範囲とは、廃棄物がいろいろな契機によって寄せあつめられた集合体、端的にゴミ溜めであるという基本認識であった。もちろんそうでない場合もあるが、後にふれるように、現在の調査手法によっては、行動の場を特定することは容易でない。わが国の研究者の多くは、遺物集中範囲とは、大量の二次廃棄物を含む廃棄空間であるという事実に眼をそむけつづけてきた。二次廃棄物の類型化が、あたかも行動の類型化であるかのような誤解が研究者をおおっていた。こうした誤謬は我が国に固有の問題ではないが（Moholy-Nagy1990）、もはや放置することはできない。」（7.）</p><p>ということで、イェレンのカラハリ・クンの調査事例から、フィッシャーのエフェ、バートラムのクア、オコンネルのハザ、ビンフォードのヌナミウト、ヘイドゥンのマヤ、ベックのダルパ、シーゲルのシピボ、オコンネルのアリャワラ、ロビンズのガラワ・ワアニイ、シリトーのウォラ、ウィードマンのガモなど豊富な調査事例が参照されて、６種類の廃棄行動に関する一般モデルが示される。そこから導かれた短期居住移動キャンプのモデルを基に、フランス・パンスヴァン36区、ウクライナ・プシュカリ、大阪・長原、神奈川・月見野上野第１地点、千葉・押沼第１、千葉・御山などの考古事象が検討される。</p><p>得られた結論は、<br />「月見野以降の理解がまったく見当違いな方向に向かっていたことは明かである。砂川遺跡やこれにつらなる多くの遺跡分析は、誤った前提にたったものであった。これまで、膨大な時間と手間を費やして、個体識別や接合作業が無批判に積みかさねられてきた。遺物集中範囲は、そうしたルーチン作業の意味を何ら問うことなく、機械的に分析されてきた。しかしながら、そうした方法のよってたつ基盤はもろくも崩壊した。基礎的な作業の成果は、まったく別な視点から見直される必要があるだろう。くりかえすが、汎世界的な視野から冷静に遺跡形成過程をみる目をやしないたい。」（32.）</p><p>全く同感である。そして重大な問題提起である。<br />若い人々には是非とも、「冷静な批判的作業」と「まったく別な視点から」の見直しを期待したい。<br />日常行われている作業の意味を問うことなく、無批判に機械的に継続されている営み・考え方は、何も旧石器研究に限られない。「日本考古学」において、「速やかに一新されなければならない」「根本的な誤解、あるいは短絡妄想」（33.）は、まだまだ数多い。</p><p>最後に、意味が良く読み取れなかった一文を示して、識者の意見を乞いたい。<br />「環状ブロック群は石材多様度の高い長期／地域人に短期形成型という両極的パターンからなりたっている。」（31R.）<br />唐突に出てくる「地域人」という概念とは？</p>
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<title>J.トーマス2012『解釈考古学』</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
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<p><strong>ジュリアン・トーマス（下垣 仁志・佐藤 啓介訳）2012 『解釈考古学 -先史社会の時間・文化・アイデンティティ-』 同成社</strong>（Julian Thomas 1996 TIME, CULTURE AND IDENTITY An interpretive archaeology, Routledge.）</p><p>「時間・文化・アイデンティティは、事実上あらゆる形式の考古学の記述に潜在する概念であるのに、考古学の内部でそれらの性質について真っ向からとりくまれることはほとんどなかった。これが、本書の核となる理論的議論である。そのため私たちには、年代決定法や編年はあるのに、時間とはなんであるのかについて、ほとんど問われることがないのである。私たちは、過去の「人間集団（ピープル）」や「地域集団（コミュニティ）」や「集団（グループ）」といった実体がどのようにあらわれ、認識されるようになったのかを深く考えることもなく、これらについて書き綴っている。なによりも私たちは、「物質文化」とよばれる何ものかを研究しているのだが、私たちはどうも、物質文化という語の背後にこめられがちな文化と自然の区分がわりと最近の発明だという認識に、問題を感じていないままのようである。」（i-ii.）</p><p>16年前の先端研究が、「日本考古学」では今でも先端どころか、受け止めることすらできないのではないかと危惧されてしまうところに、「彼我の懸隔」が埋め難く広がっていることを確認することになる。</p><a name="more"></a><p>「人間は、日常生活のなかで物質世界の構成要素を把握し、これを過去の人間がおこなった実践の証拠として構成するのである。…私はこれを「考古学的構想力」とよぼうと思う。…アカデミックな考古学もまた、物質性へと向かう人間のこうした根源的な志向にもとづいて築きあげられているのである。」（93.）</p><p>考古学の一般普及書（ギャンブル2004『入門現代考古学』）冒頭において、「考古学的な思考を練りあげること」として言及されていた「考古学的構想力」【2009-12-24】（これは第２考古学の異名でもあり、佐藤啓介2004「あとにのこされたものたち」における「ただもの論的理性（materialistic reason）」に通じるものである）が、ようやく日本語で読めるようになった。</p><p>それにしても、「取り扱い注意」とされる思想家に全面的に依拠した書籍である。「はじめに」の断り書きだけで10ページが費やされて、それだけの理由が示される。<br />それにしても、ハイデガーである。ハイデガー・ビギナーにとっては、「世界内存在」（23）、「被投」（61）、「道具的存在者」（100）、「住みこみ」（131）ぐらいまでは何とか追いつけても、「頽落」（59）、「気遣い」（61）、「脱自」（62）、「世人」（70）、「方界」（106）、「隔たりの奪取」（125）になると…</p><p>理解困難な言説に出会ったときの対処方法の一つは、自分が抱える馴染みの問題に引き付けて考えること、所謂「ガデンインスイ法」である。</p><p>「考古学的分析を手がける際に私たちがしていることは、歴史のたえざる流れから物質世界のなんらかの部分をとりだし、これらを対象として構成することなのである。したがって、記録にテクストとしての性格があるというモデルには、いささかの欠点があるかもしれないが、しかしこれらの事物の「証拠」としての性格は、自動的にあたえられるわけでもない。それどころか、「考古学をする」ためには、私たちは特定の事物を、証拠を示すものとして認識しなければならないのだ。その結果、考古学的分析は、実在物をそれ特有の仕方で認識することを可能にする「明るみclearing」という特殊な形式をとることになる。別のいい方をすれば、私たちは事物から対象へと実在物を変容させることによって、実在物を証拠として創造しなおさなければならないのだ。こうした対象化は、つねに政治的な行為となる。なぜならそれは、社会的コンテクストのなかにすでに実在している物質にたいしてなされるからである。」（91.）</p><p>これはとりもなおさず＜遺跡＞問題、それも＜遺跡＞化について述べた文章として、そのまま理解することができる。<br />「＜遺跡＞化とは、濃淡様々な価値を含んだ土地を分節し、＜遺跡＞なるものがあたかも実体として存在するものの如く産出される過程、＜遺跡＞が物象化されるメカニズムをいう。」（五十嵐2007「＜遺跡＞問題」：251.）</p><p>あるいは<br />「私たちが「世界として現成する」とよびうるのは、まさにこれらのネットワークのもつれた糸がすべて絡みあって作用するプロセスのことなのである。ひっそりと親密に事物とともに住みこみ、事物とうまくやってゆき、使いはたすことなく事物を使うことで、人間はこの世界現成化のなかへはいりこんでゆく。したがって、死すべき者としての人間とは、世界の運動におけるひとつの本質的要素なのだ。事物は、事物どうしの多くのつながりを露わにする際に、この世界現成化の別の側面に私たちがはいりこんでアクセスすることを可能にする。そうしたつながりの一面こそ、事物が大地に根ざすあり方なのである。」（112.）</p><p>これは、「痕跡連鎖構造」そのものである。<br />「遺跡から掘り出された遺構や遺物は、私たちの日常生活を取り囲んでいる品々と同じように、遺構・遺物を作り出した人々の生活をも取り囲んでいた品々の一部であっただろう。こうした様々な「もの」の相互関係、「もの」と「もの」とのつながり、「もの」の連鎖の構造を明らかにするには、どうしたら良いだろうか。」（五十嵐2004「痕跡連鎖構造」：279.）<br />「個別の遺構・遺物研究に自足することなく、様々な「もの」が「もの」を作り使う行為主体を介して連鎖している構造を明らかにする契機として、痕跡連鎖構造という考え方を提示したい。」（同：286.）</p><p>キーワードは、「つねに、すでに」（always already）である。すなわち、「被投性」（throwness）である。</p><p>「日本考古学」においてもそれなりにというより多大な影響力のある２人の著名な考古学者についても、トーマス氏にかかれば「バッサリ」である。<br />チャイルドの物質文化は「内容のない形式」であり、ビンフォードの物質文化は「実体のない現象」だという（42.）。<br />すごい…としか言いようがない。</p><p>本書（Interpretive Archaeology）は、類書（Tilley ed.1993 Interpretative ArchaeologyあるいはHodder et.al.1995 Interpreting Archaeology）とも、多少ニュアンスが異なるようである。<br />さらに言えば、日本の「解釈考古学（Interpretative Archaeology）」（山本典幸2009「環状木柱列と祖霊（上）」『史観』第161号：99.）とも、共有部分はともかく明らかな方向性の違いも見られるようである。</p><p>最後に、印象的な二つの文章を併記しておく。<br />「私には、いかなる言説（ディスクール）も非政治的なものにはなりえないという信念があることを、まず最初にはっきりさせておきたい。」（7.）<br />「過去の歴史的事実を研究することは可能であるが、様々な現代政治的問題が絡むことや、西アジア考古学会の事例等々の意見が交わされた結果、今後も継続的に扱いについて検討すること」（日本考古学協会2010「6月理事会」）</p>
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<title>韓国国立中央博物館における核安保首脳会議配偶者晩餐会</title> 
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<p>2012年3月26・27日、ソウルで核安保首脳会議（2012 Seoul Nuclear Security Summit）が53ヶ国および4国際機関の首脳ないしは首脳級首席代表が出席して開催された。26日に国立中央博物館で開催された首脳・首脳級首席代表配偶者晩餐会に関する議論が<a href="http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1610929.html" title="ハンギョレ新聞2012-03-30">新聞紙上</a>で紹介されている。</p><p>「筆者は私たちの文化遺産が収蔵庫や密閉された場所に保存されているだけであることを絶対に望まない。むしろ積極的に活用して我が国の人々だけでなく、全世界の人々が韓国文化の特徴と東北アジア文化の多様性を享有することを願うばかりだ。ただし文化遺産の活用と享有は万人に平等に提供されなければならないという普遍的享有権（文化権）が土台にあるべきであり、身分や経済力によって享有権が制限を受けてはならないということだ。」（ファン・ビョンウ韓国文化遺産政策研究所長）</p><p>「世界50余ヶ国の首脳が参加した今回の国際会議は、外国の主要言論に韓国文化を紹介できる重要な機会だったために我が国歴史文化の代表的機関である国立中央博物館が積極的に立ち上がり今回の配偶者行事を行ったのだ。外国首脳配偶者の影響力を考慮する時、国内最高の文化機関としての主導的な役割が必要だった。」（イ・ウォンボク国立中央博物館学芸研究室長）</p><a name="more"></a><p>ファン氏は、第１に温度・湿度などに敏感な国宝級文化財が特殊な身分の人々の晩餐会のムードを盛り上げるために用いられたということ、第２にどうしても国立博物館で晩餐会を開催しなくてはならないのなら、わざわざ企画展示室を改造しなくても他にホールなどいくらでも相応しい場所は有りうるという。博物館で晩餐会を開催すること自体が問題なのではなく、何のために「どのように活用するのかが重要だ」と述べる。</p><p>対してイ氏の論点は、展示品については安全管理を徹底させており問題はなく、なぜ会場として企画展示室を選んだかについては「品格ある文化外交の一環」としてより相応しいと考えたためとする。世界の主要な博物館は近年館内において各種行事が活発に行われる「複合文化空間」を指向していることを指摘する。「世界首脳の配偶者たちと関連した行事はマーケティング中でも最上のマーケティングであり、このような機会は最大限十分に活用する必要がある」という。</p><p>どちらの言い分がより正当性を有しているだろうか？<br />要点は、博物館などの文化施設、それも公的施設の存在意義、何のために設置されているのか、誰のためにあるのかといった本質に関わる。<br />私は、国立中央博物館が普段から、例えば抽選で選ばれた応募者に対して企画展示室で晩餐会を行う「複合文化空間指向行事」を毎週月曜日に行っており、2012年3月26日はたまたま首脳配偶者たちのためにその場が用いられた、というのならば、何の問題も生じなかったと思う。<br />しかしイ氏は一般観覧客が利用する常設展示館は今回会場となった企画展示室とは離れていて、一般観覧客には全く不便が無かったことを述べるのみである。そして今回の行事によって「世界首脳の配偶者たちがきらびやかな私たちの文化遺産を通じて私たちの歴史・文化に対する理解の幅を広げることができた機会として理解して下さるように願う」のである。<br />それならば、何もあえて食事をしながらではなくても、彼ら/彼女たちの「歴史・文化に対する理解の幅を広げること」は充分可能であったと思われるし、ファン氏の言うように「一般観覧客には（展示ホールで）飲み物も飲ませないようにしておきながら」、ある特定の人々に対してのみ「品格ある文化外交」を展開するのは、どう考えても「王侯・貴族たちの展示室」感覚としか言いようがない。</p><p>全く他人事ではない。<br />過日、東京駅において開業時の外観に復旧させる改修工事が最終段階を迎えている旨の新聞報道があった。<br />是非とも、丸の内駅舎の中央出入口を一般庶民も利用できるようにしてもらいたい。</p>
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<title>慧門2011『儀軌』</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-04-04 19:00:49+09:00</issued> 
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<p><strong>慧門（ヘムン）著（李 素玲 訳）2011 『儀軌 -取り戻した朝鮮の宝物-』 東国大学校出版部</strong></p><p>「私が取り戻した文化財は単に陶磁器や絵画、書籍ではない。それは民族の精神、時代の念願がこもり、戻ってきた時、民族の精神を覚ますことのできる価値のこもった文化財であることだ。<br />おおくの人は、なぜ僧侶が文化財チェジャリ探し運動にそれほど熱心なのかと問う。<br />私が理解している仏教はないものを捜すのではなく、「失ったものを捜すこと」である。仏教的にいえば、何を失ったかも知らずに生きていくのが迷える衆生であるとすれば、失った真実を求めるのが修行者であり、求道者の生であるといえる。それを金剛経では「還至本処－チェジャリ捜し」といえる。チェジャリとは本来あるべき場所、存在がもとめる完全無欠の場所でもある。世に真実より強い力はないという。私はその言葉を信じる。<br />還至本処<br />全てはチェジャリに戻らねば。」（10.）</p><a name="more"></a><p>2006年に「朝鮮王室儀軌還収委員会」を結成して日本大使館宛に「返還要請書」を公式に伝達してから、2010年に菅総理が「朝鮮王室儀軌」を「引き渡す」と発表するまで、４年間にわたる困難に満ちた還収運動の最終報告書（日本語版）である。</p><p>「誰かがかき分けた跡に続いて後からの人が進めば少しずつ道は開け車が通れるようになる。わが国を「義兵の国」と呼ぶ人がいる。危機が迫るたびに国を守ったのは、軟弱な政権や権力者ではなく、民間の義兵であった。壬申倭乱、旧韓末、日帝期の独立運動期、そして激動の現代史のなかで、いつも危機の瞬間には無辜の民が立ち上がり危機を克服してきたのがわが国の歴史である。日本宮内庁所蔵の『朝鮮王室儀軌』を取り戻すのも、そんな義兵の歴史に繋がるのではないだろうか。私はこの言葉を信じる。「真実は常に創造もできないような力を発揮する。魂を込めた卵が岩をも砕く。」」（44-5.）</p><p>しかし「卵が岩を砕く」に当たっては、自らの道が正しいと信じる「魂」と、砕くにあたっての周到な戦術が不可欠であった。<br />韓国政府自体が1965年の「韓日協定の限界」により直接の当事者となれないという制約下で、２度にわたる韓国国会における「返還を促す決議案」の採択、儀軌本来の所蔵者である寺が原告となってソウル中央法院に対する直接訴訟の提起、ユネスコをはじめ国際博物館協議会（ＩＣＯＭ）など関連する国際機構に書簡を送り、ユネスコ文化財返還促進政府間委員会（ＩＣＲＣＰ）に対しては問題を提起し、日本に対する請求権を未だに有する朝鮮民主主義人民共和国との「南北共助」を構築して共同声明を発表し、地方議会における「返還決議文」採択を働きかけ、日韓議員連盟、日朝協会、市民団体、マスコミなど理解ある人々と共にあらゆるつてを用いて世論を喚起し続けた、その結果である。</p><p>「自らがどんな時代を生きているのか、今、何事が起きているのかを、見通すことは生易しいことではない。しばしば、時が遥かに流れて、はじめて我々の生きてきた時代、何事が起きていたかを見極められるだろうと漠然とした推測をする。そうして習慣的に、後日の歴史に、われらの時代の評価を託するという言葉で、今日の冷静な評価を先延ばしがちである。<br />四年間『朝鮮王室儀軌』還収運動を繰りひろげながら、私はそんな思いに疑問をもつ様になった。日帝の朝鮮侵奪が始まったのが100余年前、その時代に起きた強奪行為を考証により究明し正すことはあまりにも苦しくつらい仕事であった。100年も過ぎたが乙未事変の真相はいまも五里霧中である。明成皇后の死についての異なる立場は散弾のようにばらばらである。勿論、大事な国論を統一するが如く、歴史をみる視点が画一化されなければならない理由はない。問題は歴史を解釈するための基礎的資料調査すら、思うようにはなされていないのが実情である。」（248-9.）</p><p>「基礎的資料調査をしよう」という呼びかけに対して、どのような対応をとるのか、積極的に問題を解決しようとするのか、それとも「一学会が扱うべき事案ではない」と「我、関せず」を決めこむのか。あるいは冷やかし、水を差すのか。私たちの現在の社会における提起されている問題に対する対応の仕方は、その人あるいはその組織の歴史認識の内実が反映している。</p><p>「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。」（2010年8月10日 菅直人内閣総理大臣談話）</p><p>自らの関心あるテーマだけに集中し、それ以外のことは雑音として「自らの任ではない」と避け続けるのか。そしてそうした在り方を甘受し続けるのか。それとも、出来る僅かなことから少しずつ自らの「戦争責任」を果たすべく、歴史を直視しようとするのか。</p><p>「今日、忘れがちな精神の根源、生きる意味に立ち返り、殖民地下での失われた民族の自尊心を捜し求める正当性を問い続けたことが、この運動を成功に導いた原動力でもある。<br />同時に戦後世界の、国際情勢に翻弄された朝鮮半島の不安定な状況、戦争、分断の激動の中で、どこかに置き忘れがちな生きることの意味を問い続けること、「チェジャリ」へ還るという「還至本処」という言葉に意味が込められている。その事葉は、「本来あるべきすがた」「あるべき場所」として、抑圧された側の自負心を取り戻すことでもある。それが民族の文化財を取り戻す原点であるという。取り戻すことの正当性、忘れられてきた伝統的文化を取り戻すことは、生きるための基本的な要求である。もはや世界の文化先進国といえども、その論理を抑圧することはできない、と今回の返還運動は如実に示した。」（李 素玲「訳者あとがき」：261.）</p><p>日本人としての真の意味での「自尊心」が問われている。</p><p>【お知らせ】<br />著者である慧門師を迎えて出版記念講演会が開かれます。関心のある方々は是非ご参加下さい。<br />『儀軌 -取り戻した朝鮮の宝物-』出版記念講演会<br />　－著書・慧門（ヘムン）師が語る文化財返還運動の経過と今後の課題―<br />日時：2012年4月8日（日） 午後3時～5時半（2時半開場）<br />会場：韓国ＹＭＣＡアジア青少年センター302号室（千代田区猿楽町2-5-5）<br />主催・呼びかけ：韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議（参加費500円、通訳付き）</p>
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<title>最新あるいは最古は決定できるか？</title> 
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  <issued>2012-03-29 20:00:01+09:00</issued> 
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<p>The relative age of any closed find, the position of its contents in the local culture sequence, must be that of the latest type-fossil or type-fossils it contains. Now a grave or hoard may contain type-fossils of differing relative ages. A hoard of florins, buried today, might comprise coins of all English sovereigns from Victoria to Elizabeth II. The latest type alone gives the date of the burial or the deposition of the hoard. Obviously our florins could not have been buried before the reign of Elizabeth II. On the contrary it is the oldest type associated with it that gives a relative date for the foundation of a building, used or occupied over several periods. For example the erection of a collective tomb must have been completed before the first interment was laid to rest in it and must be assigned to the period represented by the oldest dateable types found in the tomb; for these presumably are the surviving remains of the furniture accompanying that first burial. Similarly the excavation of the fosse defending a fort or castle must be dated by the oldest reliscs recovered from it. (V. GORDON CHILDE 1956 Piecing Together the Past. : 82.)</p><a name="more"></a><p>「一括発見物の相対年代つまりその地方の文化系列に占める内容品の位置は、含まれる標準化石のうちもっとも新しいものを基準に決められなければならない。今日銀貨を一括して埋めれば、そのホードは、ヴィクトリア女王からエリザベス二世に至る歴代のイギリス貨幣をことごとく含む可能性がある。その場合、ホードの埋置年代を示しうるのは、最新型式の銀貨だけである。現今の銀貨をエリザベス二世以前に埋めようとしても、できない相談だ。これと反対に、数時期にわたって使用ないし占拠された建物の創建に相対年代を与えるのは、それに関連した最古の型式の品である。また、たとえば集葬墓は、最初の埋葬がそこにおこなわれる以前に築造が完成していたにちがいないから、その墓で発見される最古の型式が示す時期に属す、とされるべきだ。つまり、最古の型式の品は、最初の埋葬に伴った副葬品の遺存品と推定できるからである、同様に、砦や城塞にめぐらされた濠の発掘では、濠中発見の最古の遺物から年代が求められなければならない。」（Ｖ・Ｇ・チャイルド（近藤義郎訳）1981『考古学の方法＜改訂新版＞』：105-6.）</p><p>英文における第２文（Now a grave or hoard may contain type-fossils of different relative ages.）が、訳文では欠落しているようだ。<br />それは、ともかく。</p><p>「ホードの埋置年代（the date of the burial or the deposition of the hoard）」とは、単独の埋設遺構という＜場＞に複数の異型式の＜もの＞たちが面上分布をなす状態を意味しており、その際に遺構（ホード）の製作時間（Ｔ１）は、最新型式である遺物製作時間（ｔ１）によって最も近似的に示されるということである。<br />このことは、誰しも否定しないだろう。<br />問題は、「建物の創建年代（a relative date for the foundation of a building）」である。<br />単独の空間確保という＜場＞において面上分布を示す複数の異型式の＜もの＞たちが存在した場合に、遺構（建物）の製作時間（Ｔ１）は、最古型式である遺物製作時間（ｔ１）としていいのだろうか？</p><p>製作時間が廃棄時間と異なるのは「それに関連した（associated with it）」という場合の関連性の見極めに依拠する点である。両者は、＜ＴＰＱ＞という原則による規定的性格が異なるのではないか？</p><p>それが空間確保遺構の覆土出土の場合、すなわち「砦や城塞にめぐらされた濠中発見の遺物」の場合には、なおさらということになる。</p><p>こうした点を踏まえた上で、時間的前後関係（新旧）が画然と区分される標準化石（遺物製作時間に基づく型式概念）についても、一括発見物（遺物廃棄時間に基づく層位概念）では異なる類が混在するのが常態であり、そのことを一括発見物単位における出現頻度で解析するのが「セリエーション」という手法である。</p>
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<title>縄文研究の地平2012</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-03-22 07:00:09+09:00</issued> 
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<p><strong>縄文研究の地平２０１２ -武蔵野・多摩地域の集落調査が問いかけたもの-</strong></p><p>日時：2012年3月10日（土） 13:00～16:50<br />場所：東京都埋蔵文化財センター会議室</p><p>主旨説明　「縄文研究の地平2012 -集落調査の地平-」小林 謙一<br />基調講演　「1960・70年代の縄文集落研究」安孫子 昭二<br />研究発表１「集落研究の基礎になる単位時間 -住居の存続時間-」黒尾 和久<br />研究発表２「回顧と展望 -集団領域論とセツルメントパターン論-」中山 真治<br />研究発表３「縄文集落と景観考古学」山本 典幸</p><p>割り当てられた時間は僅か45分という最後の討論の場では、多摩ニュータウンNo.446遺跡のある３軒の住居跡のうちの２軒が同時に存在していたか否かについて、論じられた。<br />あくまでも同時併存を主張する基調講演者に対して、それは数ある可能性のうちの一つに過ぎないと住居と存続時期のクロス表を描いて述べる研究発表者。</p><a name="more"></a><p>「土器の細別時期の連続は、その場での居住の連続や継続を保証しない。<br />同一細別時期の住居イコール同時機能とはならない。」（黒尾和久：『発表資料集』より）<br />「このように、類似性の強さによって共通単位を想定するか、差異性をもつ住居跡間で変換規則を駆使したグループ化を抽出するかといった「構造」分析の立場の相違はあるものの、実際に扱った集落遺跡自体に分析の未熟さが残るならば、遺跡内における基礎単位の抽出と群別・分節といった普遍的「構造」の着想は容認されないだろう。」（山本典幸：同上）</p><p>異なる意見は平行線を辿り、何ら接点を見出せぬまま、追い立てられるようにして会場を後にする。<br />両者の遣り取りを聞きつつ、かつて記したある文章を想起していた。</p><p>「認識論的系列である普遍的客観性とは理性的存在者全員が妥当であると認める状況であり、学科内客観性とは学問という特定領域内部での合意を意味する。たとえば石器資料の相互関係を表すのに、「接合」という状況は普遍的客観性を有しているが、「同一母岩」という状況は学科内客観性それも限定的な学科内客観性しか維持し得ない。１cm以下の黒曜岩砕片50点についてすべて同一母岩であると主張する研究者に対して、その根拠を示すように要求しても堂々巡りになるだけであろう。」（五十嵐2004「考古記録」『現代考古学事典』：125.）</p><p>考古学的時間論について。</p><p>「竪穴住居における「時」は、層位的情報である住居同士の重複・近接状況や住居構築・機能時に転用・設置された埋設土器、住居廃絶時に置き去りにされた土器および竪穴埋没後に廃棄された土器群や竪穴埋没後の撹乱状況など、複数の状況証拠を総合的につきあわせた帰納的操作によって判断されるが、埋設土器から導き出される構築・機能時期と住居覆土出土土器から導き出される埋没時期、すなわち上限と下限に挟まれるように廃絶時期が導き出される。」（黒尾和久2010「住居を中心とする土器の出土状況」『前原・大上・北伊奈』（第２分冊）：22.）</p><p>こうした文章についても多少の混乱があるようだ。例えば上記の「住居覆土出土土器から導き出される埋没時期」というのは、正確には「住居覆土中・上層出土土器から導き出される埋没時期」のことであり、「床面～覆土下層出土土器」については、「廃絶時期」とされているからである。</p><p>こうした点を明確にした上で、私たちはさらに先へと進んでいかなければならないのだが、その点（鈴木－林テーゼ）については、いずれの論者も言及されることはなかった。</p><p>「層中の遺物すなわち面と面に挟まれて包含される遺物は、下面の形成以後、上面の形成以前のある時に含まれる。しかしこの「ある時」とはあくまでも遺物が層に含まれた時間であり、遺物の廃棄（ｄ）に関わる時間である。遺物が示す時間、代表的には土器型式が示す製作（ｍ）時間について言いうるのは、層の上面すなわち層の形成以前を示すという＜ＴＰＱ＞のみであり、層の下面すなわちマイナス痕跡の場合には掘り込み面（マイナス面で構成される遺構の製作＜Ｍ＞時間）との前後関係は不確定なのである。（五十嵐2008「考古時間論 -縄紋住居跡応用編-」『縄文研究の新地平（続）』：187.）</p><p>ここから先の道程については、本年秋に刊行予定という『新地平（続々）』に少し記した。<br />すなわち山内編年と井戸尻編年、土器型式編年とセリエーションの相違に関わる問題である。</p><p>景観考古学についても、欧米においてはともかく、少なくとも「日本考古学」では＜遺跡＞問題を潜り抜けない限り、本質を欠いたものとなることを確認した。</p><p>「縄紋のことは縄紋のことだけをやっていては判らない」というのが、当日得た結論である。</p>
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<title>日本考古学協会図書アンケート</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-03-12 12:30:58+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p>去年の12月に実施されると予告されていたアンケートが、3ヶ月遅れで送られてきた。 </p><p>質問５　図書の公開について、適当と思われる何れかの番号に〇をつけてください。<br />①非公開とし倉庫に保管する　②会員へ公開する　③一般にも公開する　④寄贈先の利用規則に任せる　⑤その他</p><p>「非公開とし倉庫に保管する」といった選択肢が採用されていることに、眩暈がしてくる。</p><p>質問６　図書の利用について、適当と思う番号に〇をつけてください（複数可）。<br />①閲覧だけ　②閲覧と本人によるコピー　③郵送によるコピーサービス　④本の郵送貸出　⑤寄贈先の利用規則に任せる</p><p>利用者の便宜を一切考慮しない「閲覧だけ」といった利用形態が、一般社団法人として許されるのだろうか。</p><p>「中小規模のＭＬＡ機関（引用者註：博物館・美術館、図書館、文書館）では、所蔵資料、特に館固有の所蔵資料の目録が、手書きの台帳、いわば「大福帳（紙の台帳）」による管理によっているところもある。これらの機関も、地域のかけがえのない知的資産を所有しており、それらを地域、国民の共有文化財として有効活用することの社会的責任がある。社会の知識インフラの拡充に向けて、所蔵資料のデジタル化・デジタルアーカイブ化、それが難しい場合も、所蔵資料に関する情報を整備、データベース化し、ネットワークで公開することが強く求められる。」（知のデジタルアーカイブに関する研究会（総務省）2012『知のデジタルアーカイブに関する研究会提言（案）』21.）</p><a name="more"></a><p>質問１　図書の所蔵・保管・寄贈について、何れかの番号に〇をつけてください。<br />①図書を一括して、協会で保管する　②図書を分割し、協会が一部を所蔵し、残りを１ヶ所に寄贈する　③図書を分割し、協会が一部を所蔵し、残りを数ヶ所に分けて寄贈する　④図書を一括して、1ヶ所にすべて寄贈する（質問４へ）　⑤図書を分割し、数ヶ所に分けてすべて寄贈する（質問４へ）　⑥その他ご意見</p><p>そもそも「一括寄贈」に固執したために、国内機関からの応募がなく、多くの協会員が想定しなかった「海外寄贈」などという事態を招いたのではなかったのではないか。もちろん①がベストだが、それには固執せず、相手先との様々な条件を考慮しながら②以下の最善の選択肢を選ぶべきではないのか。それを「何れかの番号に」などと一択を迫るものだから、おかしなことになるような気がする。<br />そして「相手先との様々な条件を考慮」するに際して、最低限必要なのが、問題となっている物件の正確な数量・内容、すなわち書誌データの把握なのだが・・・ </p><p>「市川考古博物館から所沢市内の倉庫へ移動した時点での総冊数は56,420冊である。」（第１回協会図書に係る特別委員会議事録 議題【報告】２ 協会図書の現状について）と断言されていたのだが、今回は「2010年3月の集計では、1,460余種類の逐次刊行物が13,900余冊、その他の逐次刊行物と一般図書が43,630余冊で、合計57,530余冊です。」（日本考古学協会図書に係るアンケート ６．所蔵図書の概略）と僅か半年で1,000冊以上も増加しているのは、いったいどうしたことだろう。そしてそれすらも「余冊」と正確な点数は未だ確認されていないようである。そして市川考古博物館に寄贈した冊数は何冊なのだろうか。</p><p>そもそも「2011年10月17日（月）午前10時30分より」開催されると日時まで予告されていた（『協会会報』No.174：21.）第３回 協会図書に係る特別委員会は、果たして開催されたのだろうか？<br />そしてそのことについて、2012年1月の理事会で一切言及されていないのは・・・</p><p>アンケート用紙には「協会公式サイトからの回答も可能です」と記されているのだが、私のパソコンからはどこをどのようにすれば「可能」なのか、サッパリ・・・である（2012年3月11日時点）。<br />（3月15日付記：ようやくアップされた。紙到着以前、せめて同時でないと意味がないと思う。）</p><p>一会員としては、内部でメルトダウンが進行しているのではないかと心配になる。</p>
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<title>黄壽永編1973『日帝期文化財被害資料』</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-03-01 18:50:54+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p>待望の資料集の日本語訳がようやく完成！<br /><strong>『日帝期文化財被害資料』 考古美術資料第22集 韓国美術史学会刊 黄 壽永（ファン スヨン）編<br /></strong>（元韓国国立中央博物館長・東国大学校総長・日韓会談文化財小委員会首席代表、2011年2月1日逝去）<br />日本語版　李 洋秀（イー ヤンス）・李 素玲（イー ソリョン） 共訳・補編<br />「1959-1964年の日韓会談文化財返還交渉で代表委員を務め、日本に返還を強く主張した韓国美術史研究の第一人者が地をはうような収集活動と20年の歳月をついやして完成させた貴重な資料集」＜李 亀烈著『失われた朝鮮文化』（新泉社刊）南 永昌解説から＞。1973年にガリ版刷りで200部だけ限定発行された貴重な資料集を完全復刻、日本語に翻訳。21世紀に遺された文化財返還の課題を網羅した研究者必読の書がようやく読めるようになりました。引用された資料も検証、追補しました。（Ｂ５版・縦書・163頁）<br />・限定非売品ですが、送料込・カンパ一口1000円で希望者にお頒けしています。下記にお申込み下さい。　<br />Fax 03-3237-0287　Tel 03-3237-0217　E-mail：<a href="mailto:kcultural_property@yahoo.co.jp">kcultural_property@yahoo.co.jp</a>  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-601　韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議　郵便振替：00140-9-607811<br />（以上、案内チラシより）</p><a name="more"></a><p>「この冊子は、韓国美術史学会刊行の故黄壽永先生編集『考古美術資料 第22集』「日帝期文化財被害資料」（1973年1月25日発刊、限定200部印刷）を1968年11月15日韓国美術同人会発行の金 嬉庚（キム フィギョン）先生編『考古美術資料 第20集』「韓国塔婆研究資料」等も参照して、黄 壽永先生の遺族及び韓国美術史学会の許諾と協力を得て、今回初めて日本語に訳されたものである。<br />本来、参考文献等を表にして示すべきだが、この冊子自体が種々の資料等を引用した参考文献表の性格を持っている。<br />また原本には一部の絵図を除き、写真の挿入は一枚もない。そして元の文は日本語で書かれた資料、書籍、新聞、研究論文等の引用が大部分なので、翻訳、編集にあたっては、できる限り日本語の原典にあたり、元の文をそのまま引用するように努めた。また原本では元の文章が余りにも簡略に省略され、単語の羅列だけで前後関係の理解が難しい部分も少なくないので、元の文をより多く引用し、写真等も複写した。」（「はじめに」訳・編者から）</p><p>「こんにち、日本国内にある外国、とりわけ中国・朝鮮の文物が、どの様な経緯のもとで日本国内へ持ち込まれたものであるのか、正しい理解を示す人々は圧倒的に増えつつある。中・朝人民に向けられた帝国陸軍の銃剣の庇護のもとで、最も大切な民族のこころを、最も悪辣な強盗行為によって持ち込まれたものである事を。<br />過去の日本考古学の犯罪は、こんにちになっても決して許されないし、僕達はその負債を負わねばならない。僕達は、この親の負債を返すべく具体的準備をすすめたいと思う。この事は、実に帝国主義本国人民として、被侵略国人民に対するつぐないであり、そしてまた、最も重大な仕事の一つでもあるだろう。略奪文物は、近い将来必ずや各国人民に返還されねばならない。<br />僕達は、具体的な準備としてまず手始めに「韓国」で出版された、帝国陸軍と日本考古学の犯科帳―考古美術資料第22輯 黄寿永（ファンスヨン）編「日帝期文化財被害資料」1973年1月 韓国美術史学会刊―の訳出を連載する。」（岡本俊郎1977「略奪文物を各国人民に返還しよう！」『見晴台のおっちゃん奮闘記』1985所収：127-8.）</p><p>「これまでも「市民の会」で細々と続けられてきた翻訳作業を、参加できるみなさんと共にがんばってやってみよう、と思っています。<br />その本は、黄 寿永（ファン スヨン）編「日帝期文化財被害資料」といい、1973年、韓国美術史学会が発行したものです。現在「文化財」と日本で呼ばれているものが、ほとんど中国・朝鮮から略奪したものであることを思えば、これはいわば、帝国陸軍・日本考古学の「犯科帳」です。<br />この訳出が、略奪文物返還の具体的準備となるよう、始められた翻訳作業ですが、ひとりでも多くのみなさんと、継続してぜひやろうと思います。」（岡本俊朗1977「帝国陸軍・日本考古学の「犯科帳」翻訳に参加しませんか？」同上：130.）</p><p>1970年代に「在日朝鮮人への差別撤廃を！名古屋市民の会」で「細々と続けられてきた翻訳作業」がその後、中断し、それから40年の歳月が経過した後に、その志しが別の市民団体に引き継がれて、このたびようやく日本語版が完成した。日本語原本を編集してハングルに訳した原書をさらに原本を参照しつつ追補して訳出するという困難な作業である。将来的には未確認の総督府資料なども追補したハングル版も新たに出版される計画とのことである。今回の訳兼編者は、お二人とも在日の方で、岡本氏が「帝国主義本国人民の当然のつぐないであり、最も重大な仕事の一つ」とした作業において日本人が主体的な働きをなすことができず、さぞかし天国で怒られていることだろうと想われる。私も僅かな図書館資料の複写を訳者のもとへお送りするといった正に微々たるお手伝いしかできず、恐縮の限りであるが、今後この「資料集」を一つの起点として、「略奪文物を各国人民に返還しよう！」という呼びかけに答え、同じ志しを持つ各地の仲間と共に所在確認調査を進めていきたい。</p><p>「この資料を今後どのように駆使し、ここに載せられた内容が何を表すのかについて、黄先生はほとんど何も言及していない。それは「この冊子を手にした読者が決める領分である」という、黄先生からのメッセージが聞こえて来そうだ。<br />初版から39年の長い時間が経過しても、今なおこの資料集の持つ意味は限りなく重い。読まれた方は是非この冊子を手許において、これを基により研究を深めていただきたいと願うものである。」（李洋秀「訳者あとがき」：163.）</p>
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<title>上村2001『先住民族の「近代史」』</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-02-23 19:00:50+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p><strong>上村 英明 2001 『先住民族の「近代史」 -植民地主義を超えるために-』 平凡社</strong></p><p>「先住民族の問題が、単なる「失われた文化」の保存や「奪われた権利」の回復に終わるならば、それは近代社会における「博物館」のような意味しかもたないであろう。本書は、先住民族の歴史や文化を、そうした「近代化」によって「失われた過去」の回復、あるいは行き詰った「近代」を超えるユートピアとしてではなく、逆に近代国家のただ中でこそ、先住民族が動員され利用された経緯を明らかにする。近代国民国家こそが、先住民族問題を「課題」として生み出したという新たなテーゼを提示し、先住民族研究のパラダイムを切り拓く画期的な力作。」（裏表紙より）</p><p>「先住民族の視点から見るとき、核開発の本質をよりはっきりと見ることができる。核問題は近代社会の中の「平和」か「軍事」かあるいは「豊かさ」か「貧しさ」かという人類一般にとっての選択的問題ではなく、民族差別と植民地支配を前提にした「人権侵害」という普遍的問題にほかならない。そして、核問題は、先住民族に関する限り、二〇世紀から二一世紀に持ち越された絶対的な「負の遺産」を形成している。北米先住民族には、「七世代先」のことを考えて現在のことを決めるという教えが存在する。「今」のことしか考えなかった人々が、「七世代先」のことを考える人々に押しつけた「負の遺産」を二一世紀はどう清算するのだろうか。」（265-266.）</p><p>先月の脱原発世界会議2012YOKOHAMAのとあるブースにて入手した抜き刷りの一節である。<br />そこから、本書全体を読み進めるべく手にとる。</p><a name="more"></a><p>しかし一頁読み進める毎に、本を閉じて考えを巡らし、休み休みでないと読み通せない、そんな「重い」書肆である。</p><p>「本稿が指摘したい最大のポイントは、先住民族の権利の視点がなかったために、日本の歴史学をはじめとする社会科学が、この大日本帝国の詭弁に150年にもわたって誤魔化されて、「北海道」と「沖縄」を植民地問題のスコープからはずしてきてしまったことである。そして、その結果、依然として「植民地政策」や「同化政策」が続行中であるという事実に向き合うことも忘れ去られている。」（150-1.）</p><p>如何に近代文明国が、先住民族を踏み台にして自らの繁栄を築いてきたかが、明瞭に示されている。それは記されているように、現在にも引き続き継続している構造であることは、原発立地自治体への異常な公金投資や沖縄防衛局長の酒席での発言によって、誰もが確認できる。<br />ウラン鉱山での採掘に始まり、放射性廃棄物の最終処理に至るまで、それは都市・文明・近代が地方・過疎・先住民を犠牲にして初めて成立するものであることもまた明らかである。<br />そうした傾向が世界でも最も顕著であるとされるこの国は、３・１１以後どのような道筋を選びとっていくのだろうか？</p><p>「１６世紀に起源を発する人権侵害と環境汚染は、その歴史の本質が忘れさられた地域では５００年を経て、まさに２１世紀を迎えた今日でさえ解決していない。そして、残念ながら、「公害問題」も「地球環境問題」も近代産業社会が行き着いた「帰結」によって引き起こされた悲劇だとこれまでとらえがちであった。しかし、近代システムには、その「前提」として、技術革新と経済成長、環境破壊と人権侵害の相互関係が組み込まれていたことをポトシーと先住民族の物語は示唆している。近代システムの「帰結」は、むしろその「原点」の再検討によって、予想することが可能になることが少なくない。いまだ清算されていない「コロンブス」時代の教訓を、未来の時代に生かすためにも、「水俣病」の前にあった「水俣病」を改めて考える意味は決して小さくはなっていない。」（179.）</p><p>先住民考古学、アイヌ考古学、琉球考古学、植民地考古学、侵略考古学、これらがすべて折り重なって、「日本考古学」に組み込まれている。</p>
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<title>2010『アイヌ研究の現在と未来』</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-02-16 19:00:21+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p><strong>北海道大学アイヌ・先住民研究センター編 2010 『アイヌ研究の現在と未来』 北大アイヌ・先住民研究センター叢書１</strong></p><p>歴史学、考古学、形質人類学、法律学・政治学、文化人類学、言語学の６つの分野について、基調報告とそれに対するコメントあるいは解説の文章、関連論文などが掲載されている。<br />2008年6月および12月に北海道大学で開催されたシンポジウムの記録集である。</p><p>考古学については、報告：「アイヌ考古学」の歩みとこれから（佐藤 孝雄：72-93.）、コメント：岩屋（シラッチセ）の保護と伝承（谷上 嶐:94-99.）、解説：アイヌ研究において考古学の果たすべき役割とは何か（加藤 博文:100-113.）が掲載されている。</p><a name="more"></a><p>「幸い、趣旨をご説明申し上げたところ、同会員諸氏は調査を行うことを了承してくださったが、その際、二つの事柄を要望された。一つは、ヒグマの骨を始め送り場にのこされた物質資料を調査・研究のため研究室に持ち帰るのであれば、分析・報告を終えた後、それらを現地に戻してほしいとの要望。もう一つは、歴史的に女性の立ち入りが禁じられてきた場所であろうから、調査にあたる人員も男性に限定して欲しいとの要望であった。これらの要望を突きつけられたとき、筆者は、現地を訪れた経験を持ち合わせずとも、同会員諸氏が祖先ゆかりの聖地を守り、その尊厳を傷つけまいとする熱意を抱いておられることをはっきりと認識した。」（佐藤：85.）</p><p>北海道ウタリ協会千歳支部会員諸氏から出された「二つの要望」のうち、前者は先住民考古学で課題となっている「再埋葬問題」であり、あるいは「文化財返還問題」に連なるものである。<br />問題は、後者の要望である。</p><p>大学の助成金を得ての調査であるから、当然のことながら参加を希望する女子学生も有り得たであろう。そうした人たちに、いったいどのような説明をして断ったのだろうか。そもそも調査担当者当人が女性であったら、いったいどうなるのだろうか。</p><p>文化的伝統と現代の価値観との相克である。<br />アフリカなどにおける女性器切除の問題、あるいはヨーロッパなどでのブルカ着用の問題などが想起される。<br />私だったら、どうしただろうか。<br />難しい問題であるが、現地の人々の理解を得ることが出来ずに、性差別を容認した上でなされる調査は、たとえ先住民の伝統的価値観に配慮したとしても受け入れることは困難だと思う。</p><p>「今なお言われ無き差別と偏見の中にも置かれている彼ら。彼らはなぜ私たちではないのか。彼らの歴史はなぜ私たちの歴史と違うのか。このことをともに考える機会を、私たち歴史家は努めて設けるべきではなかろうか。」（佐藤：91.）</p><p>引用文中の「彼ら」を全て「彼女ら」に置き換えることが可能である。<br />一方の尊厳が尊重されることで、他方の尊厳が貶められる。<br />両者の尊厳は決して両立不可能ではない、と信じるのだが。</p><p>同書所収の第１章 歴史学 報告：これからのアイヌ史研究にむけて（榎森 進:20-58.）、および第5章 文化人類学 報告：文化人類学はなぜアイヌを忌避したか -学問もまたアイヌを差別するか-（佐々木 利和:224-235.）については、以下の批判的見解が示されている。<br />＊大塚 和義 2011 「国立民族学博物館におけるアイヌ研究と博物館活動の過去・現在・未来」『国立民族学博物館研究報告』第36巻 第1号：113-141.</p><p>「言い換えれば、これからの民族学、人類学では、研究の目的・目標をどこに置くのか、人類学研究の成果をどこに求めるのかということが大きく問われる時代といえる。<br />間違いなくいえることは、将来的には、アイヌの人自らが、アイヌ文化研究の主導的な役割を担っていくことが求められているという点である。だからこそ、先にも述べたように、研究機関としての北海道大学アイヌ・先住民研究センターの役割の重要性が再確認されるのである。」（大塚：140.）</p><p>アイヌ考古学は、「日本考古学」にとって極めて重要な試金石である（【<a href="http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2006-09-25" title="アイヌ民族蔑視の根底を問う">060925</a>】、【<a href="http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2007-05-14" title="アイヌ民族のいま">070514</a>】、【<a href="http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/2010-07-15" title="学問の暴力">100715</a>】などを参照）。</p><p>「北海道島における近代化とは日本史の一コマであると同時に、まさに「開拓」といった名前がはからずも示しているように、アフリカに出現した人類の祖先が、北半球を寒冷地適応しながら高緯度地帯へと向かっていった人類史における構造性を内包しているのであり、その意味でも人類史の研究を標榜する現代の考古学にとって重要な研究対象なのです。」（小杉 康 2011 「列島北東部の考古学」『はじめて学ぶ考古学』有斐閣：282.）</p><p>「考古学専攻を志望する学生諸君だけでなく、新聞やニュースで考古学の成果の一端にふれる機会のある多くの市民の皆さん」を対象にした入門書におけるある章のまとめの文章であるが、これではどのようなことを言いたいのか、すぐさま理解できる「考古学をはじめて学ぶ」人は少ないのではないかと危惧される。</p><p>「1966年（昭和41年）に刊行された「新冠町史」を読むと、アネサルから上ヌキベツへの強制移住に触れた記述は四ヵ所ある。しかし、どれも「牧場経営の都合によって、全土人は平取町上貫気別に転住するのやむなきにいたった」（82ページ）といったふうに、わずか一、二行の説明で終わっている。<br />「陛下に失礼にあたる。御料牧場を批判するようなことは許されない。」新冠町史編纂委員の一人だった新冠町朝日の高瀬賢治さん（78）は、「その発言の前には黙るしかなかった」と委員会を振り返る。」（『銀のしずく -アイヌ民族は、いま-』北海道新聞社1991：84.）</p>
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<title>内田2011「日本考古学の時代区分」</title> 
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<p><strong>内田 好昭 2011 「日本考古学の時代区分」『考古学研究』第58巻 第3号</strong>：27-36.</p><p>「実証的な文化史的考古学の手法と日本人や日本文化の連続性・一系性という了解は、分かち難く結びついているのである」（28.）として、チャイルドによる時代区分の論理構造を下敷きに、「記紀の記載に基づく時代区分」（18世紀後半－1880年代）から「民族交替論の時代区分」（1890年代－1910年代）、そして「固有空間論に基づく時代区分」（1930年代－）を独創的な図でもって示す。<br />坪井、鳥居の民族交替論は社会集団と時代が一致し、山内以降の固有空間論は社会集団と空間が一致している、という端的で鮮やかな指摘である。</p><a name="more"></a><p>かつて以下のような課題を提出したことがあった。<br />「「日本考古学」という学問のまなざしとそこに現われている「日本的特質」を、私たちはしっかりと認識するように求められている。その次には「日本考古学」なるものが体現している枠組み（言語としての日本語・空間としての日本列島・主体としての日本人という三位一体構造）、そこから漏れ落ちてしまっているものの様相を明らかにしていく作業が控えている。」（五十嵐2008a「「日本考古学」の意味機構」『考古学という可能性』：30-31.）</p><p>ここで、一つの回答が与えられた。<br />「日本考古学とは、この「日本」とよばれる固有空間をフィールドとする考古学のことなのである。」（33.）</p><p>こうして「文化史的考古学」（私の語彙で言えば「第１考古学」）の回復に向けた方向性とそれに抗う方向性が示される。</p><p>前者について。<br />「社会集団は必ずしも同じ広さの空間の中にとどまり続けることはない。空間を移動することもあるし、占有地域を広げたり、縮めたりする。そして、それは考古学的文化の地理的分布によって読み取れるはずである。こうした空間の変容をどのように明らかにし、どのように表現するか、という課題を解決する必要があるだろう。時代区分が地域の限定を必須とするとしても、こうした空間の変化とどう折り合いをつけるのか、ということである。」（35.）</p><p>縄紋土器型式について言えば、山内1937以来の「渡島、陸奥、陸前、関東、信濃、東海、畿内、吉備、九州」という地理的区分、あるいは現代風に「北海道、東北、関東、中部、北陸、東海、近畿、中国・四国、九州、沖縄」にしても、あるいはI～Ⅴの大領域、a～ｄの中領域、1～7の核領域といった23区分（『総覧 縄文土器』）にしても、全て同じである。<br />縦横にさらに複雑な罫線を入れていく「阿弥陀籤」方式を推し進めていくのか？<br />それでも隣接する左右との相互関係しか表現できない！</p><p>後者について。<br />「・・・時代区分を行なうには地域の限定が不可欠である、この地域を私たちが日々活動しているフィールドなみに縮めてみたらどうか。あの川の両岸の空間、あの山からこの山までの間、この盆地という具合にである。（中略）<br />私たちの日々の仕事は、直接には、このような場所の履歴を明らかにする作業に他ならない。文化史的考古学の論理が、結局のところ文化を特定の社会集団に結びつけざるを得ないのであれば、私たちは民族交替論とは異なったやり方で「場所」を限定し、文化史的考古学に抗う方途が残されているように思うのである。」（35.）</p><p>私は、更に＜遺跡＞という私たちに馴染みの区分単位を射程に据えて構想している。<br />「時間的な変遷に関わらず通時代的に、その空間範囲は固定的で、明確な境界（遺跡範囲・国境）を有し、境界線の内部は安定的で均質、外部との差異は明瞭であるといった世界認識から、時間的な変遷に応じて、その空間範囲は生成的で、明確な境界などは一時的なもので網状を呈し、内部は常に変動する不安定で流動的な歴史認識へ。」（五十嵐2008c「「日本考古学」と海南島」『海南島近現代史研究』第1号：35-36.）</p><p>全く異なった場所からスタートしながら、それぞれの軌跡を描きつつも、期せずして同じような地点に到達しつつある。<br />そのような感慨を抱いた。</p>
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<title>１個の石器とは</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-01-26 07:30:29+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p>「１個の石器は１個の石器であり、１個の貨幣は１個の貨幣であるということには何の問題もない。」（オルトン,C.（小沢・及川訳）1987『数理考古学入門』雄山閣：171.）<br />という文章を引用して、「本当に石器と貨幣を同列に論じることができるのか」という考古資料の個体数算定に関する疑問を提出し、石器の最小個体数（ＭＮＩ）と階層的石器体系について発表したのは、今から10年前のことになる（五十嵐2002「石器資料の基礎的認識と最小個体数（ＭＮＩ）」『日本考古学協会第68回総会 研究発表要旨』：29-32.）。</p><p>ところが10年が経過しても、事態は一向に改善の兆しを見せない。</p><p>例えば、</p><a name="more"></a><p>東京都府中市武蔵台遺跡（多摩総合医療センター地区）A地区第１文化層の「石斧」は、３点出土しているとされている（東京都埋蔵文化財センター2010『武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡』東京都埋蔵文化財センター調査報告第239集 第１分冊）。<br />しかし、何度確認しても２点しかない（同 第３分冊 第1図-1および第3図-1・2）。</p><p>東京都調布市飛田給北遺跡第9地点の「角錐状石器」は、11点出土しているとされている（東京都埋蔵文化財センター2011『飛田給北遺跡第9地点』東京都埋蔵文化財センター調査報告第250集）。<br />しかし、何度確認しても10点しかない。</p><p>何故、このような事態が生じているのか？</p><p>それは、何れも真ん中から折損している石器を「２点」と数えているからである（『武蔵国分寺跡関連遺跡・武蔵台遺跡』第３分冊第3図1・2および『飛田給北遺跡第9地点』第29図(1-60,1-1167））。</p><p>１個の石器は、たとえ折れて２つになろうと３つになろうと、それはやはり「1個の石器」なのではないか？<br />もちろん１個の石器が２つに折れて、それぞれを改めて作り直して別個の石器とするような事例も想定不可能ではないが、そうした事象は極めて例外的であり、単に１個の石器が折損面で折れている（接合している）ような場合とは明確に区別するべきである。</p><p>これは剥片や石核という石器資料の基本的な単位である「石器単位」（１類接合構成資料）と「石器単位」が折損して生じる「石器要素」（２類接合構成資料）という石器研究の基本的な区別が疎かにされていることに起因している。<br />（石器単位と石器要素については、五十嵐2002「旧石器資料関係論」『東京都埋蔵文化財センター研究論集』第19号を参照のこと。）</p><p>仮に、ある石器（打製石斧でも角錐状石器でも）を台の上に置いて、上からハンマーで叩いて10個の破片に砕け散ったら、それは10個の石器になるのだろうか？<br />あるいは、ある縄紋土器の破片が20個あり、それぞれが接合して1個の深鉢形土器に復元されたとしよう。その時、それを20個の深鉢形土器とカウントする考古学者はいないだろう。</p><p>土器資料では決してなされないような資料操作が、何故石器では平然となされており、更にはそのことが一向に問題とならないのか？</p><p>学問の研究対象として、どのような単位を基礎的な計数基準としているか、すなわち「何を一個とみなしているのか？」という問題は、学問としての基礎中の基礎、最初に解決しておくべきことである。<br />残念なことに、こうした基本的な問題提起がないがしろにされているのが、現在の「日本考古学」である。</p>
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<title>脱原発世界会議</title> 
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  <issued>2012-01-19 20:30:33+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p><strong><a href="http://npfree.jp" title="脱原発世界会議">脱原発世界会議</a> 2012 YOKOHAMA<br /></strong>GLOBAL CONFERENCE FOR A NUCLEAR POWER FREE WORLD</p><p>日時： 2012年1月14日（土）・15日（日）<br />会場： 神奈川県 パシフィコ横浜<br />主催： 「脱原発世界会議」実行委員会<br />　　　　（ピースボート／環境エネルギー政策研究所／グリーン・アクション／原子力資料情報室／国際環境ＮＧＯ FoE Japan／国際環境ＮＧＯ グリーンピース・ジャパンほか）</p><p>「NUCLEAR FREE NOW<br /> 福島の原発事故をへて、私たちは岐路にあります。<br /> 子どもたちを守り、夢と希望をつなぎたい。<br /> 核の時代を終わらせ、自然と生きる未来をつくりたい。<br /> できるんです。<br /> 世界の人々とつながれば。」（案内パンフレットより）</p><a name="more"></a><p>ヨルダン、マーシャル諸島、タヒチ、インドネシア、オーストラリア、南アフリカ、ケニア、インド、バングラデシュ、タイ、モンゴル、ロシア、中国、台湾、韓国、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ドイツ、フランス、スイス、カナダ、アメリカ、エルサルバドルなどなど。</p><p>様々な場面で、様々な人々の熱い想いに触れた２日間だった。<br />世界の人々が、日本の今を、そして「これから」を見つめている。<br />それに答えようとしている力が、繋がり始めている。<br />労働組合、市民運動体、生活協同組合、地域政党、アウトドア企業など<br />しかしなぜ会場を提供しようという大学からの申し出は、なかったのか。<br />学長が新聞紙上で対談したり、電車内の吊広告を出す以上の宣伝効果があるはずなのに。<br />こうした点にも「企業体マインド」というかセンスが問われている。</p><p>「争い（争奪・戦争）を引き起こす石油と原子力から<br />平和を生み出す太陽光などの自然エネルギーへシフトしよう」<br />という飯田哲也氏の呼びかけが心に残った。</p><p>「人類が、自然環境の中にある材料から技術（テクノロジー）をもって加工した品物（物質文化環境）の多くは、腐り、朽ちる物、すなわち土から生じて土に帰る物であった。それゆえ、唯一腐りにくい物、朽ちにくい物である「石器」や「土器」が、考古学の主たる対象とされてきたのであった。<br />しかし今日では、物質文化環境における驚異的な技術革新が、決して腐らない物、朽ちない物を生み出し、環境汚染の元凶となっている。決して土に還元しないプラスチック、決して土に帰らない合成物質（ダイオキシン・ＰＣＢ・プルトニウム・・・）。かつてはあらゆる物質が、自然環境と物質文化環境との間で生成と消滅のサイクルを形成していた。<br />今や土に帰ることのない産業廃棄物を如何に処理していくのかが大きな社会問題となっている。どのような環境モデルを構築し、環境問題にどのように対処するのか、生態システムへの社会的適応形態という社会と環境の関係性について考える場合には、先史社会を含めた長期的な視野が必要とされる。」<br />（五十嵐1998「最寒冷期の環境と適応 補説」『石器文化研究』第6号：102.）</p><p>それから14年が経過して、事態は更に深刻化し危機的な状況に立ち至っている。</p><p>「原子力のリスクの度合いは福島によって変わったわけではない。しかし、リスク認知が変わったことはたしかである。大事故のリスクというものが、単に仮想上あるというだけでなく、こうした大事故が実際にも起きうるということが、これまで以上に多くの人々に自覚されるようになった。それとともに、社会の大多数の人々のリスク認知が、リスクの現実に見合ったものとなった。（中略）<br />「安定したエネルギー供給」に関する考察は、社会発展の基本的問題と結びついている。人間は、技術的に可能だからといって、すべてしてよいわけではないという原則は、原子力の評価に際しても、考慮されなければならない。特に、技術の帰結が「永遠の負担」という性格を持ちうる場合には、批判的評価が特に重要となる。短期的な利益を優先した決定をすると、その負担に向き合うのは未来の多くの世代である。そうした決定をしていいのかという責任に、社会は向き合って、なにが受け入れられることで、なにが受け入れられないことと判断すべきなのか決定しなければならない。（中略）<br />立ち向かうべき課題に対する畏敬の念、そして自分の思考や行動における謙虚さこそが本質的に重要である。」<br />（安定したエネルギー供給のための倫理委員会『ドイツにおけるエネルギー転換 -未来のための共同の仕事-』三島憲一訳2011『世界』第825号)</p><p>国や行政の危機管理がいかにお粗末か、公的施策を遂行するために民主的な装いを取り繕った様々な手続がいかにないがしろにされているか、中央官庁の役人たちがいかに被害住民の気持ちを思いやる心遣いに欠けているか、テレビや新聞に頻繁に登場する専門家・研究者たちが関連組織からどれほどの資金供与を受けていたかなどが明らかにされつつある。<br />世界では「廃墟を見ても学ぶ能力のない日本というイメージが少しずつ広まっている」（三島憲一）という。<br />情けない話しである。<br />お粗末な行政を少しでもまともにしていく努力と共に、行政に頼らない市民が主体となったネットワークの構築が必要不可欠である。<br />その為には、一人一人の問題意識を高め、持続させることが欠かせない。<br />日本という国に、本当の意味での「民主主義」が根付くかどうかが問われている。<br />そう、私たちを取り巻く状況は、グローバルに変わりつつある。</p><p>「よい人間であること、あるいはよいことをすることなど、どうでもよかった。<br />意味のある人生、責任のある人生を送ることが重要だったのだ。」（ステファン・エセル）</p>
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<title>考古トリビア</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:51Z</modified> 
  <issued>2012-01-12 21:00:47+09:00</issued> 
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<![CDATA[
<p>問３２　濱田耕作が「通論考古学 第三章　調査の方法（一）八五、図版」の項で述べていることで正しいのはどれか。<br />A.　報告書の中で本文が最も価値があり、それで伝えきれない部分を図版で効果的に補う。<br />B.　報告書の中で図版は本文あるいはそれ以上の価値があり、図版を主として伝えきれない部分を本文で補う。<br />C.　写真は従来の図画よりも正確で速く、大幅な費用の節約をもたらすもの。<br />D.　ミハエリスは近世考古学進歩の大原因の一つに写真を挙げている。<br />正解：B<br /><a href="http://www.n-bunkazaihogo.jp/" title="日本文化財保護協会">公益社団法人 日本文化財保護協会</a>「平成23年度 埋蔵文化財調査士補 資格試験 筆記問題（Ⅰ択一式）」より（以下同）</p><p>宗教団体の教典ではないのである。<br />いくら名著とは言え、90年も前に出版された書籍の一節を取り上げて、21世紀の現在その内容を問うという神経が理解できない。</p><a name="more"></a><p>問１７　次の文章で正しいものはどれか。<br />A.　小林行雄は長く明治大学で教壇に立ち古墳時代の講義を行っていた。<br />B.　小林行雄は黒塚古墳の発掘を長く指導してきた。ここで三角縁神獣鏡の歴史的価値を証明した。<br />C.　小林行雄は長く京大にあって、縄文時代、弥生時代の講義を行い、多くの研究者を育ててきた。<br />D.　小林行雄は椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡の研究から、鏡を分配するという、中央と地方の関係を明らかにする新しい仮説を打ちたてた。<br />正解：Ｄ</p><p>ある著名な研究者が、どの大学に属していたのか、そのようなことが本質的な事柄とはとても思えない。<br />ビンフォードは、ニューメキシコにいようがアリゾナにいようが、彼の考古学研究を評価するうえで何ら関係はないと思う。しかし小林行雄が明治大学にいたか京都大学にいたかが、埋蔵文化財を調査する資格を審査する上で重要な判断基準となると考えるのが、「埋蔵文化財」という名前の「日本考古学」である。</p><p>問２２　行政の行った確認調査の結果と、本格調査によって検出された遺跡内容が大きく異なった場合、調査担当者として行うべきことは次のうちどれか。<br />A.　検出された遺構を着実に調査する。<br />B.　確認調査結果に合わせるように調査内容を変更する。<br />C.　視察に来た行政職員に対して誇大に誤りを指摘する。<br />D.　確認調査の不備をブログ等で発表する。<br />正解：A</p><p>「べき」という「当為」の意からすれば答えは一つなのだが、単に「着実に調査する」だけでいいのかという思いは残る。そして「誇大に」指摘するようなことは論外として、ここには「的確に」誤りを指摘すること自体も、あるいは自らの情報発信手段を用いて自らの意見を表明する行為すらも、心理的に抑制させる効果が婉曲に示されているように思われてならない。</p><p>問２１　調査日報を書く上で必要のない項目は次のうちどれか。<br />A.　記載者のサイン<br />B.　本日の作業内容<br />C.　明日の作業予定<br />D.　本日の昼食の内容<br />正解：D</p><p>ふざけているとしか思えない設問なのだが、当事者は至って真面目であるという点が厄介である。</p><p>「国民の共有財産である埋蔵文化財の保護に必要な技術力や専門性を育成向上するために民間調査機関が自発的に結成したわが国初の協会で、文化財保護に関する調査、研究を通じて埋蔵文化財調査事業の健全な発展を図り、もってわが国文化芸術の振興に寄与することを目的にしています。」（日本文化財保護協会ウェブより）</p><p>問題にすべきは単なる資格問題の是非ではなく、その内実に至る議論が必要なのではないか。</p>
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<title>「国宝」という問題</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:52Z</modified> 
  <issued>2012-01-05 19:00:02+09:00</issued> 
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<p>文化財保護法　第二十七条　文部科学大臣は、有形文化財のうち重要なものを重要文化財に指定することができる。<br />２　文部科学大臣は、重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるものを国宝に指定することができる。</p><p>「国宝　１．国家の宝、くにのたから。　２．重要文化財のうち、特に学術的価値が高いもの、美術的に優秀なもの、文化史的意義の深いものとして、文部大臣が指定した建造物・彫刻・工芸品・古文書など。」『広辞苑』</p><p>2010年度分を含めて現時点での総数1082件、今回問題とするのは、ここから建造物（216件）を除いた、美術工芸品（866件）についてである。その内訳は、絵画（158件）、彫刻（126件）、工芸品（252件）、書跡・典籍（223件）、古文書（60件）、考古資料（44件）、歴史資料（3件）である。</p><a name="more"></a><p>「日本の国宝」とは、何となく「たぐいない国民の宝」すなわち「日本を代表する優品」ぐらいに考えていたのだが、どうやら思い違いをしていたようだ。</p><p>例えば「絹本著色桃鳩図」（指定番号00006、国：中国、時代：北宋、作者：徽宗）。<br />例えば「紙本墨画禅機図断簡（寒山拾得図）」（指定番号00088、国：中国、時代：元、作者：因陀羅）。<br />明確に、中国で中国人によって製作された作品である。<br />福井県敦賀市所在の「朝鮮鐘」をはじめ、こうした「日本の国宝」は数多い。<br />すなわち「日本の国宝」とは、「日本で日本人によって製作された文化財」ではなく、単に「日本が持っている宝物」なのである。</p><p>「神品」と呼ばれて、今話題の「清明上河図」（中国国家一級文物、国：中国、時代：北宋、作者：張 拓瑞）。<br />あるいはフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」などは、どこに所蔵されていても、オランダという国の宝だと思うのだが。<br />日本の古美術品の海外流出を防止するための「重要美術品」制定の契機となった「吉備大臣入唐絵巻」（平安時代・12C）は、現在の所蔵者がボストン美術館であろうと、やはり「日本の宝」なのではないか。</p><p>だから「絹本著色鳩桃図」は「日本に存在している中国の宝」であろうし、「朝鮮鐘」は「日本に存在している韓国・朝鮮の宝」だと思う。<br />仮に雪舟の作品が中国で発見されたとして、それはやはり中国の宝（国家一級文物）にはならないのではないか。</p><p>こうした「国宝」という問題を扱う際には、以下の２つの点に留意する必要がある。<br />１．「国宝」というカテゴリー自体が、ある種の「権威付け」に他ならないということ。<br />２．その権威付けの目的が、他ならぬ「ナショナル・アイデンティティ」であるということ。</p><p>その存在自体が問題であることを踏まえた上で、当面はその存在の在り方を問題としていかなければならない。</p>
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<title>韓日文化財交流大会</title> 
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  <modified>2012-05-23T03:16:52Z</modified> 
  <issued>2011-12-22 07:30:01+09:00</issued> 
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<p>蓮池寺鐘環収国民運動　第１回 韓日文化財交流大会<br />연 지 사 종 환 수 국 민 행 동 한 일 문 화 재 교 류 댸 회</p><p>日時：2011年12月17日（土）～19日（月）<br />場所： 韓国・慶尚南道・晋州市<br />主催： 蓮池寺鐘環収国民運動<br />後援： 慶尚南道・晋州市、韓国文化財庁</p><p>「蓮池寺鐘還収国民運動は、今年で創立３年目となる活動である。統一新羅時代の833年に鋳造されて、壬辰倭乱（文禄の役）の翌年（1593年）に晋州城陥落で略奪され、現在は日本国福井県敦賀市の常宮神社が保管する晋州蓮池寺鐘の還収運動を行っている。この文化財還収運動は、単に晋州圏域の歴史・文化運動に終わらず、関係する国家相互間における略奪文化遺産の共感形成と同時に、蓮池寺鐘還収のために韓国と日本の文化財および歴史研究者の互恵的関係改善が先行して進められなければならない。」（『蓮池寺鐘還収韓日文化財交流大会計画案』「事業目的」から一部改変して抜粋）</p><a name="more"></a><p>１日目の晋州城および晋州国立博物館の見学、歓迎晩餐会から始まり、２日目の交流大会へ。<br />セッション１： 韓日文化財交流活動と市民団体の課題<br />セッション２： 蓮池寺鐘保存管理および共同対応方策<br />セッション３： 蓮池寺鐘還収のための韓日間の役割と対策</p><p>セッション２におけるファン・ビョンウ氏（韓国文化遺産政策研究所）およびカク・ドンへ氏（東国大学）の発題を受けて、以下のような簡単なコメントを述べた。</p><p>「考古学は、＜遺跡＞を発掘調査し、＜遺跡＞という＜場＞における＜もの＞と＜場＞の関係、＜もの＞と＜もの＞の相互関係からその＜場＞に＜もの＞を残した人々の様々な営みを考えます。ですから＜場＞における＜もの＞の在り方、＜場＞と＜もの＞の相互関係が何よりも重要視されます。＜場＞から切り離された＜もの＞は、そうしたコンテクスト（脈絡）が失われた「２次資料」とされます。＜もの＞である文化財も生み出された＜場＞における位置づけがなされて初めて、その本当の価値が与えられると言えます。＜場＞から切り離された文化財は、単なる骨董品と言っていいでしょう。<br />こうした価値ある＜もの＞である文化財は、時にその所有・領有を巡って、立場の異なる人々や国家の間における争奪・対立・抗争の原因となってきました。しかし＜もの＞に対する私たちの対し方・見方次第では、対立のもとになっている文化財が、逆に人々・国家を結び付け、隔てや誤解を解消し、共同して作業する契機ともなりうるのです。<br />それでは、どのようにしたら、そのような新たな関係を形作ることができるでしょうか。<br />それには、私たちの＜もの＞に対する見方を新たにする、更新していくことが必要です。<br />どのようにして？<br />私たちが＜もの＞を見るときに、２つのポイントを意識することが必要です。<br />１つは、その＜もの＞が生まれた時や場所です。製作された時代や場所であり、現在の博物館などの展示品に付されているラベルには、こうした情報のみが記されています。<br />しかし私たちは２つめのポイントをも意識して、＜もの＞である文化財を見なければなりません。それは、その＜もの＞が今ある＜場＞に運ばれてきた時や経緯についてです。１つめのポイントである製作地から遥かな道程を経て運ばれてきた場合に、誰が何時、どのようにして、そしてどのような意図で、その＜もの＞を運んできたのか、そのことがやはり展示されている＜もの＞を理解するのに欠かせない情報なのです。これからは、そうした情報が＜もの＞に付されているラベルに記されるようになるでしょう。<br />こうした＜もの＞の見方が多くの人々、特に原産地から運び去った経緯のある国に帰属する人々の間で意識的になされるようになった時に、紛争・対立の種であった文化財が、今までは対立していた人々・国々を結び付け、和解の道へと進みうる重要な働きをなすことになるでしょう。」</p><p>「国宝　朝鮮鐘（太和七年三月日清州蓮池寺鐘在銘）　一口<br />指定年月日　昭和27年11月23日<br />（中略）<br />その鋳法は蝋型鋳物の焼き流し技法によっているが、文様、形態はすこぶる古様で、渡来鐘のうち最も大形のものに造する。<br />慶長二年（1597）敦賀城主・大谷吉継（吉隆）が、豊臣秀吉の命により、当神社に奉納したと伝えられているが異説もある。」（平成11年11月1日　敦賀市教育委員会）</p><p>「歳月が流れ、蓮池寺は閉寺される。寺はなくなったが、鐘だけは取り残され、700年ほど長く晋州に安置してあった。それが文禄・慶長の役の第２次晋州城の戦闘の時、日本に椋奪されたのである。豊臣秀吉の家臣である大谷吉継は晋州城の戦闘に参戦した後、他の戦利品と共に鐘を日本の名古屋（名護屋？：引用者）に運んでいったようだ。大谷吉継は、蓮池寺の鐘を1597年自分の領地の常宮神社に奉納したことと知られている。<br />蓮池寺の鐘は、日本の国宝であるが、国宝としての管理はされていない。腐食が酷く、最近は音も正常ではない。また日本人によって墨書銘も書かれている。蓮池寺の鐘は、一介の個人の神社の隅っこの倉庫に閉じこまれ、まるで幽閉されているかのようだ。」（蓮池寺鐘還収国民運動2011『蓮池寺鐘』（広報パンフレット）より）</p><p>「渡来鐘」、確かに「渡来」したのであるが、それではまるで何事もなく日本の地にもたらされたかのようである。<br />こうした両者の認識の違い、隔たりを解消していくことが、何よりも大切な作業となる。</p><p>２日目の夜は、参加者の熱気に圧倒されるような「親善懇談会」。<br />そして３日目の午前は地元の市役所を表敬訪問したのだが、当日になって市長は急遽、ソウルに呼び出されたとのことで面会することができなかった。その昼、釜山のキムヘ空港出国ロビーのテレビは、北朝鮮国営放送のアナウンサーが総書記の死を伝えていた。</p>
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