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梅原・藤田編著 1946-1966『朝鮮古文化綜鑑』 [全方位書評]

梅原 末治・藤田 亮策 編著 1946-1966『朝鮮古文化綜鑑』第1巻~第4巻、養徳社

「東亜の考古學乃至古文化の研究の上に大きな寄與をなした朝鮮半島に於ける古代遺物遺蹟の調査事業に就いては、當初主として事に當られた故関野貞博士の執筆に係る諸論文を首として、朝鮮総督府から年々刊行の調査報告や特別報告其他種々の印刷物に依り、その成果が公にせられて、各方面に基本的な資料を提供してゐるのは周知のことである。たゞし前後三十餘年に亙つて行はれた本事業の齎した個々のそれ等に就いての権威ある總括的な刊行物に至つては、前半に於ける『朝鮮古蹟図譜』を外にして、なほ見る可きものがないばかりでなく、調査報告の類に至つても諸種の特殊事情に加へるに、時局の影響などにも禍されて、後半に入つては刊行されたものがまことに寥々としてゐて、為に近年續出した重要な遺物遺蹟の如き、一部関係者を除いて殆んど學界に知られてゐないと云ふのが眞の實状である。これは文物の性質の上から観て遺憾至極なことであつて吾々の様に二十餘年来調査に関與した者にとつては、省みてそれについての責を感ぜざるを得ないものがある。」(第1巻:1.)

第1巻「楽浪前期」の発行年は1946年1月1日、「序」末尾は1944年11月3日
第2巻「楽浪 乾」の発行年は1948年12月10日、「凡例」末尾は1947年8月13日
第3巻「楽浪 坤」の発行年は1959年7月30日、「凡例」末尾は1956年8月13日
第4巻「高句麗編」の発行年は1966年5月20日、「凡例」末尾は1965年8月13日である。
1945年を挟んで、足掛け20年以上に渡る大作である。
当初は全12冊600余枚の図版を収録予定であったという(第1巻「序」)。

「なほ編纂の大綱は編著両名の合議に依り、基準となる部分は藤田之を擔當したが、爾後の部分なり印刷其他一切の處理は梅原がその責に任じた。而して時局の切迫下右の處置には専断事に當るの止むなき場合の多かつたことを併せ擧げて置く。」(第1巻「凡例」)

「この巻の解説其他の殆んど全部は終戦の直前に出来上つてゐたのであるが、種々の事情で遅延して出版が今日に及んだ。未曽有の敗戦に依つて朝鮮が独立することになつた結果、遺物の所在の如き全く違つたものとなつてしまつたが、いま俄かに一々それを確め得ないので、舊の儘にとゞめる外なかつた。」(第2巻「例言」)

「教授就任後の梅原は、日本の大陸政策に巧みに便乗して、あるいは朝鮮、あるいは中国、さらにインドシナと東アジア各地に発掘に研究旅行にと、まさに席の暖まる暇もないほど多忙をきわめ、さらに日本国内では宮崎県の新田原古墳群、熊本県の江田船山古墳など重要な発掘調査を行い、その一方では東亜考古学関係の図録や報告書を次々に出版した。戦時下で用紙統制が厳しく、学術雑誌が多数廃刊合併し、唐古の発掘報告すら危うく出版を断念する寸前だった当時、梅原がいったいどのようにして自分の研究の豪華書の出版ができたのか、まさに驚くべきことである。」(穴沢 咊光1994「梅原末治論」『考古学京都学派』:272.)

「当時、千二百ポンドの配給実績しかもたない天理時報社出版部では、このままでは消滅するより道はなく、この際どうしても他の出版社を統合して規定ポンド数を確保し、文書伝道機関としての機能を保持したいという強い意図を持っていた。そこで、まず京都の甲鳥書林に呼びかけ、19年2月1日、京都市中京区三条通に仮事務所を設けて新しい出版社設立の下準備にかかった。そして企業整理の線上にあった六甲書房、朱雀書林、古書通信社を吸収合併して株式会社養徳社を設立することになり、5月1日、発起人会が開かれた。こうして「営利にとらわれずに良書を発行し、わが国出版文化の発展に貢献する」との中山正善管長(真柱)の構想のもとに手続きが開始された。ちなみに養徳社の社名は中山管長によって付けられた。」(元渕 絋2006『創設のころ -養徳社創立六十年-』:8.)

「第二巻刊行後、諸般の事情の為に中絶していたこの綜鑑が同じ養徳社から続刊されることとなつたに就いては、天理教真柱中山正善氏の配慮に負うところが多い。記して謝意を表する。」(第3巻「凡例」)

「たゞ第二次世界大戦に於ける敗戦に伴い、我が学者が主導的な位置をとつた同地方の学術調査に一応終止符が打たれることになり、過去四十年に近い調査の迹が自ら顧みられるにつけ、久しく調査の実際に関与して来た者の一員として見た場合、従来公にされた発掘の報告は、うちに上記のような世の耳目を惹く豪華なものがあつて、その声価を高めている半面に、より重要な類で而も未発表のまゝに終つた遺跡が少くなく、更には現在通説化しつゝある当代の墓制観や、楽浪文物の所見に就いても、ある点からは再検討を要する点が少くないことが思われるのである。」(第3巻「楽浪の墓制」:58.)

「敗戦後、梅原が残念に思っていたのは、日本占領下の朝鮮で行われた発掘のあるものがきわめてお粗末であり、また多くの発掘調査の成果が未報告のままで放置され、日本人による朝鮮考古学の研究がこのままでは後世の批判を浴びるのではないか、という点であった。彼は、戦後、努めてこういった未発表の資料の紹介を試み、『朝鮮の古代文化』(1946)、『朝鮮古代の墓制』(1947)の二著をはじめ、藤田亮策と共に日本人による朝鮮考古学研究の成果を総合する図録『朝鮮古文化綜鑑』全十二巻の刊行を企画したが、資金不足のために、四巻で挫折してしまった。これらは貴重な資料源としてきわめて利用価値が高いが、日本の朝鮮統治政策や文物保護行政に対する批判や反省がなく、すでに述べたように、朝鮮半島の土着文化の主体性を過小評価した発想で書かれていた。」(穴沢1994:270-1.)

「優秀な事実記載や文化史的個別研究すら満足にできない我々凡人の立場から見れば、そういうことができて後世に名を残せるだけでも幸いといわねばなるまいが、かりそめにも考古学の最終目的はたんなる古物の記載と分類ではなく、遺跡遺物を基礎に人間の歴史を説明することが義務づけられていると確信する新しい世代の考古学研究者たちにとって、六〇余年もの勤勉精励な研究生活を送り、国際的にも名を知られた梅原末治ほどの学者が、莫大な資料の蓄積以外に後の世の学史に語り継ぐべき思想的遺産を残さなかったことはなんと侘しいことであろうか。」(同:222.)

キーワードは「時局」。
ある時は「巧みに便乗して」、ある時は「禍されて」。
「勤勉精励な研究生活」のすえに「東亜の考古学に大きな寄与をなした」と自賛した「優秀な文化史的個別研究」も、今から振り返れば「なんと侘しいこと」か。
嘆息。


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